(1)問題
① 山本周五郎作の「赤ひげ診療譚(しんりょうたん)」に,「大機里爾(タイキリイル)」に関する挿話がある。東京·小石川の養生所の医師である「赤ひげ」こと新出去定(にいできょじょう)と,その弟子である保本登(やすもとのぼる)の,末期の膵がん(膵臓がん)患者の診察に際してのやり取りである。
② 「これは大機里爾,つまり膵臓に初発した癌腫だ」と去定が云った,
〔略〕
③ 「ない」と去定は嘲笑するように首を振った,「この病気に限らず,あらゆる病気に対して治療法などはない」
④ 登はゆっくり去定を見た。
⑤ 「医術がもっと進めば変ってくるかもしれない,だがそれでも,その個躰のもっている生命力を凌ぐことはできないだろう」と去定は云った。「医術などといってもなさけないものだ,長い年月やっていればいるほど,医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ。病気が起こると,或る個はそれを克服し,べつの個は負けて倒れる,医者はその症状と経過を認めることができるし,生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる,だが,それだけのことだ,医術にはそれ以上の能力はありゃしない」
⑥ さて,新出去定が吐露した所感とほぼ似たような感覚を,現代の医師たちもしばしば抱くことがある。
⑦ 現代の医学は膵臓の解剖も生理もおよそ知り尽くしている。しかしいまだに膵がんを早期発見することはできない。「赤ひげ」の時代に比べれば,膵がんに対するわずかに有効な治療はいくつか開発されている。しかし有効な治療といっても,万人にではなく一部の患者にしか効果がない。しかも効果があるかどうかは,たいていの場合,治療をしてみないとわからない。
⑧ 確かに医学は進歩し続けている。現代の医学は,過去から現在にわたって積み重ねられてきた人類の英知の総和である。現在ある診断技術や治療法は次々アップデートされ,それぞれの領域の進歩はその専門家でなければキャッチアップできないぐらいに速い。
⑨ ではなぜ,医学は進歩を続けるのか? その理由は,いつまでたっても医学が完璧ではなく,依然として医療が不確実だからである。いまだに多くの病気の原因は不明である。がんの原因すら完全に解明されているわけではない。喫煙,アルコール過量摂取,放射線,慢性炎症,特定の化学物質ががんの原因であることは知られている。
⑩ しかし多くのがん患者はそれらが全く当てはまらない。治療法がまだない難病は数多い。認知症も慢性心不全も肝硬変も,進行を完全に食い止めることはできないし,病気によって損なわれた身体機能を完全に取り戻すこともできない。
⑪ 誰しも重い病気にかかれば,そのつらさや苦しみに耐えかね,「治りたい」「助かりたい」と強く思う。「最先端医療」に大きな期待を寄せるのも,ごく自然な感情である。とはいえ人々は,医療がこれだけ進歩しているのだから,「どんな病気も治せる」と医療に期待をかけ過ぎてはいないだろうか? 進歩した医療の恩恵を受けて,「自分の生命はきっと救われる」と見当違いしてしまうことはなかろうか?
⑫ 医学は万能ではないし,医師は神様ではない。病気のすべてをコントロールすることは不可能である。いや,コントロールできないことの方が多い。医療は限界だらけである。限界があるから,どのような選択にもリスクが付きまとう。
⑬ 人間という生き物は,人間が想像する以上に複雑である。人体には,いくら医学が発展しても,説明のつかない個体差がある。人それぞれ顔つきも体格も異なるように,症状の出方も治療の効き方も千差万別である。同じ治療を受けても,劇的に効果がある人もいれば,全く効果が現れない人もいる。現在最高の治療を受けても,病気は治らないことが多い。それどころか,激しい副作用にさいなまれる人もいる。治療法がないという現実をつきつけられる人々もいる。
⑭ 医療の不確実性を理解しないと,医療をうまく活用することもできないし,誤った選択でかえって病気を悪化させることにつながりかねない。医療のリスクはなるべく避けるべきだが,ゼロ·リスクはありえない。例えば,どんな薬にも副作用がある。稀な副作用のリスクを恐れて,必要な薬の服用を回避すれば,その薬の効果という恩恵を逃すことになる。また,どんなに腕の立つ心臓外科医が執刀しても,手術後合併症や手術死亡のリスクをゼロにすることはできない。このようなリスクを「悪」ととらえ,医療自体を否定することは非合理的である。
康永秀生『すべての医療は「不確実」である』より(一部改変)
設問1.問題文を200字以内で要約しなさい。
設問2.問題文の要旨をふまえて,あなたの考える医師の役割を200字以内で述べなさい。
(2)解答例
設問1.問題文を200字以内で要約しなさい。
進歩する医療が万能であると人々は期待をかけ過ぎ、見当違いする。医療には限界が多くどんな選択にもリスクがある。同じ治療を受けても効果に個体差がある。最高の治療を受けても治らないことが多く副作用もある。治療法がない現実に直面する人もいる。医療の不確実性を理解しないと医療をうまく活用することもできず誤った選択で病気を悪化させる。医療にゼロリスクはない。これを悪ととらえ医療を否定することは非合理的である。
(200字)
設問2.
治療の有効性には限界があり副作用もある。こうした情報を患者にも共有するためにインフォームド・コンセントがある。近年、生成AIやロボティクスなど医療技術の進展が目覚ましく、創薬分野においても日本は世界の先端を行く。これは患者に大きな福音をもたらすが、これに頼り過ぎるのは慎むべきである。治療の有効性と安全性を自覚した上で、ICによりこれを患者にも伝えることで患者中心の医療を実現させることが医師の務めである。
(200字)
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