こんにちは。千代です。
龍のことを思い浮かべていた日に、龍の模様が入った包み紙を見かける。何気なく開いた本に、同じ文字がある。そんな偶然が重なると、何かを伝えてくれたのだろうか、と心が動くことがあります。
その小さな驚きを、すぐに打ち消す必要はないと思います。ただ、心に残ったことと、龍からの合図だと確かめられたことは、同じではありません。今日は、その間に少しだけ余白を置くお話です。
目に入ったことと意味を分ける
たとえば、帰り道で龍の絵が描かれた看板を見つけたとします。「龍の絵を見た」は、その場で起きたことです。「こちらへ進めと言われた気がした」は、それを受け取った自分の印象です。
二つを分けるのは、感じたことを間違いにするためではありません。出来事に、自分の願いや気持ちがどのくらい重なっているのかを、丁寧に扱うためです。
もともとそこにあった看板に、その日初めて気づいたのかもしれない。たまたま視線が向いただけかもしれない。そうした普通の可能性も、そばに置いておけます。
龍を大切に思う気持ちと、偶然かもしれないという見方は、一緒に持っていてよいのだと思います。どちらか一方を急いで選ばなくても、見上げたときのうれしさまで消えてしまうわけではありません。
続いた偶然にも結論を急がない
一度なら気にしなかったことも、続けて起きると特別に感じられることがあります。けれど、重なった回数だけで、何かの指示や約束があったとまでは言えません。
たとえば、龍の絵を見たあとに、知人から龍という字の入ったお菓子をもらったとします。「今日はよく出会う日だな」と楽しむことはできます。でも、それだけを理由に、迷っていた大きな買い物を決める必要はありません。
買うなら、値段や使い道、今の暮らしに無理がないかを確かめる。そのうえで気に入ったなら、自分の選択として迎える。偶然を味わうことと、決断の根拠を確かめることは、別々にできるはずです。
反対に、気になっていた模様を見かけなかった日も、何かを失った証拠にはなりません。毎日合図を探して、一日の良し悪しを採点しなくてよいのです。
わからないまま置いておく
龍観術について言葉を綴るときも、観えた印象と、そこから考えた意味を混ぜないでいたいと思っています。観えないところまで、もっともらしい答えで埋めないことを大切にしています。
「龍の合図だったのでしょうか」と問われても、確かめられなければ、わからないという余白が残ります。それは冷たい返事というより、受け取った方の暮らしを、こちらの解釈で決めてしまわないための線引きです。
もし心に残った偶然を書き留めるなら、見たものを一文、そのときの気持ちを一文に分けてもよいでしょう。「店先に龍の絵があった。少しうれしかった」。そこまでで終えても、十分にその日の記録になります。
あとから意味を探し直す義務もありません。説明のつかない出来事を、説明のつかないまま持っていることもできます。
うれしかった気持ちだけ持ち帰る
偶然に龍を思い出して、帰り道の景色が少し柔らかく感じられた。その気持ちは、未来の保証に変えなくても、大切にしてよいものです。
合図だったと証明できなければ、価値がないわけではありません。きれいなものを見て足を止めたこと、自分が何に惹かれるのかに気づいたこと。そのくらいの小さな出来事として、暮らしの中へ戻してもよいのだと思います。
龍から何かを言われたことにしなくても、今日はこの道を歩いてよかったと思える。答えを付けないまま、温かいお茶を淹れて一日を終える。
そんな距離で龍を思う日があっても、よいのではないでしょうか。心に触れたものを急いで大きくせず、今の自分が受け取れる大きさで、そっと持ち帰ってみてください。