こんにちは。千代です。
龍を思うとき、叶えたい願いや、知りたい答えが先に浮かぶこともあると思います。それとは別に、ただ「ありがとう」と言ってみたくなる日があってもよいのではないでしょうか。理由を立派にまとめず、次のお願いも用意せず、その一言で終わる時間です。
今日は、新たに龍が観えたという体験の報告ではありません。龍に向ける感謝の言葉を、何かを得るための条件にしないことについて、静かに考えてみます。
お礼のあとを空けておく
「ありがとう。だから、今度はこうなりますように」。そんなふうに言葉を続けたくなること自体は、不自然ではないと思います。願いがあるのは、それだけ心にかかっていることがあるからでしょう。
ただ、感謝とお願いは、必ず一組にしなくてもかまいません。今日はお礼だけ。願いについては、また別のときに考える。そのように区切ってみると、自分が何に心を動かされたのか、少し見つめやすくなるかもしれません。
たとえば、長く使った傘を乾かしながら、「今日も雨をしのげたな」と思う場面を想像してみてください。次の晴天を約束してもらうためではなく、今日の役目を終えた傘に目を向ける。それは身近なたとえですが、お礼だけで完結する言葉の小ささを表しているように感じます。
龍を思い浮かべて伝える一言も、長い祈りに整える必要はありません。言葉のあとに何も続かない時間を、そのまま残しておいてよいと思います。
何が起きたかは、分けて受け止める
うれしい出来事のあと、龍にお礼を伝えたくなることがあるかもしれません。その気持ちは、ご自身の受け止め方として大切にしてよいものです。一方で、出来事の原因まで龍だと決めることとは、分けておきたいと考えています。
誰かが丁寧に手を貸してくれたなら、その人の働きがあります。自分で何度もやり直したことが形になったなら、ご自身の時間や工夫もあります。龍への感謝を抱くことで、目の前にいる人や、自分がしてきたことを見えなくしなくてよいのです。
龍観術で観えたことを伝える場合も、そこから現実の出来事すべての理由が分かるわけではありません。観えた範囲と、確認できないつながりは別です。「そう感じた」という個人的な思いに、証明できない説明を付け足さずにいられたらと思います。
龍には心の中でお礼を伝え、助けてくれた人には直接お礼を言う。その二つは、どちらかを選ばなければならないものではありません。
感謝できない日を責めない
心がざわついているとき、「感謝しなくては」と自分に言い聞かせるほど、言葉が重たくなることもあるでしょう。納得していないことを、無理にありがたい出来事へ変えなくてもかまいません。
龍を大切に思っていても、今日は何も言いたくない。そんな日があってよいと思います。お礼の言葉が出ないことだけで、縁が切れたり、不運が訪れたりすると判断する根拠はありません。感謝の回数を数えて、自分の良し悪しを測る必要もありません。
つらかったことは、つらかったこととして扱う。まだ受け止めきれないことは、そのままにしておく。そのうえで、いつか自然にお礼を言いたくなったら、そのときの言葉を選べば十分ではないでしょうか。
ありがとうは、気持ちを隠すためのふたではなく、気持ちに合うときに使える言葉であってほしいと、私は思っています。
返事を待たずに終える
龍に感謝を伝えたあと、何か合図があるか、願いが動き出すかと、周囲を確かめたくなることがあるかもしれません。けれど、お礼への返事を見つけるところまで、一日の課題にしなくてもよいのです。
空の形や偶然の出来事を、必ず返答として読み取る必要はありません。何も感じなければ、何も感じなかった。それ以上に結論を急がず、いま手元にある用事へ戻ってかまいません。
ありがとうを伝えたことで、未来が保証されるわけではありません。それでも、何かを受け取ろうとする手をいったん休めて、自分の気持ちを一言にする時間には、その人なりの意味があるのだと思います。
龍へのありがとうに、今日は願いを添えない。その小さな区切りを選んでも、願いそのものを捨てたことにはなりません。ただ、お礼をお礼のまま置いておく。そんな静かな時間も、龍との向き合い方の一つであってよいと思います。