こんにちは。千代です。
龍についての言葉を読んだとき、心に浮かんだ姿があった。けれど、数日たって思い返すと、色も向きも曖昧になっている。そんな場面を想像してみてください。大切に受け止めたはずなのに、どうして覚えていないのだろうと、少し寂しくなるかもしれません。
今日お話しするのは、新たに龍が観えたという体験ではなく、受け取った印象と記憶との付き合い方です。はっきり思い出せない部分を、はっきりしないままにしておくことにも、誠実さがあると思っています。
忘れたことに意味を足さない
龍の姿を思い出せないとき、「縁が薄くなったのだろうか」「大事にしなかったからだろうか」と理由を探したくなることがあります。けれど、記憶が曖昧になったというだけで、龍との関係や、ご自身のあり方を判断することはできません。
色を覚えていないことと、何かを失ったことは同じではありません。印象が薄れたところに、罰や試練という説明を急いで置かなくてよいのです。今言えるのは「細部は思い出せない」というところまで。それ以上の意味は、分からないまま残しておけます。
たとえば、気に入った音楽を聴いたあと、曲のすべては口ずさめなくても、好きだったという気持ちだけ残ることがあります。ここでは、そのような身近な場面をたとえにしています。龍について心に残ったものも、いつも鮮明な映像の形で持ち続けなくてよいのではないでしょうか。
空白を描き足さずに置く
思い出そうとしているうちに、以前読んだ文章や、あとから見た絵が浮かぶこともあるでしょう。その姿が美しいほど、「たしか、こんな感じだった」と結びつけたくなるかもしれません。
そこで少しだけ、区切りをつけてみます。「そのとき覚えていたこと」と「今、想像していること」。どちらも自分の内側にあるものですが、同じ記録として扱う必要はありません。想像を楽しむことが悪いのではなく、それを過去の確かな体験へ変えないことが大切なのだと思います。
龍観術でも、観えたことと観えないことを混ぜずに伝える姿勢を大切にしています。覚えていない輪郭を整えて、ひとつの完成した姿にするよりも、「そこは分かりません」と伝える方が正直な場合があります。
欠けた部分のある話は、出来の悪い話ではありません。曖昧な場所を残しても、そのとき受け止めた思いまで否定することにはならないのです。
残っている言葉に戻るとき
もし鑑定文などの記録が手元にあり、読み返したいと思ったら、まずはそこに実際に書かれている言葉を見てみてください。記憶を採点するためではなく、書かれた内容と、今の自分の印象を分けるためです。
たとえば、文には「白い」とだけあり、自分の記憶には「銀色の光」が残っていたとします。これは説明のための仮の例ですが、すぐにどちらかを消さなくてもかまいません。「文章では白い。私は銀色の光を思い浮かべていた」と、二つを並べておけます。
読み返して初めて気づいたことがあれば、「今日読んで気づいたこと」として受け取れば十分です。最初から分かっていたことに直す必要はありません。同じ文章でも、読む日の気持ちによって、目に留まるところが違うことはあるでしょう。
記録がなければ、無理に元の姿を作り直さず、「今は思い出せない」で終えてもよいと思います。確かめるためだけに、急いで新しい鑑定を受けなければならないわけでもありません。
覚え続けることを約束しない
大切な言葉を受け取ったからといって、毎日思い出し続ける約束までしたわけではありません。別のことに夢中になる日も、龍のことを考えない日も、その人の暮らしの一部です。
いつかふと一節を思い出したら、その一節だけを眺める。何も浮かばなければ、今日は浮かばないと受け止める。以前の感覚を再現できるかどうかを、日々の課題にしなくてもよいのです。
龍の印象を忘れてしまったら、まずは忘れた自分を責めずにいてください。残っているものは残っているまま、分からないところは空白のまま。その静かな分け方を、私は大切にしたいと思っています。