「ここは、観えませんでした」
ある日の鑑定報告書に、そう書きました。
書いたあと、しばらくその一行を見ていました。
もっと何か書けるのではないか。
別の言葉なら、受け取る方をがっかりさせずに済むのではないか。
そんな考えが浮かびました。
鑑定を受けてくださる方は、答えを求めて来られます。
迷っていることがあったり、確かめたいことがあったり。
だから、空白のような言葉を返すことには、今でも少し怖さがあります。
それでも私は、観えなかったところを、観えたようには書けません。
龍を観ていると、はっきり姿が伝わってくることがあります。
向いている方向や、動きの重さ、息の通り方まで、言葉にできる日もあります。
反対に、輪郭が定まらないこともあります。
そこに何もないのか、まだ私には届いていないのか。
その理由までは、わかりません。
わからないものに意味をつければ、文章は整います。
「今は答えを知る時期ではありません」
「龍があえて隠しています」
そう書けば、それらしく読めるかもしれません。
けれど、その意味を私は観ていません。
観えていない理由を想像し、きれいな言葉で埋めた瞬間、それは鑑定ではなく、私の物語になります。
だから、その日は書き直しませんでした。
「ここは、観えませんでした」
そのまま報告書に残しました。
お渡ししたあと、物足りないと思われたかもしれません。
料金をいただいているのだから、すべての欄を言葉で満たすべきだという考え方もあると思います。
私自身、空白をつくらないことが誠実だと思っていた時期がありました。
少しでも多く伝えようとして、観えたことの周りに解釈を重ねていたこともあります。
でも、言葉を重ねるほど、最初に観えたものから離れていくことがありました。
観えたものは、意外なほど静かです。
大きな約束をしません。
未来を決めつけません。
こちらを急かすこともありません。
ただ、今の姿としてそこにあります。
それを受け取るには、足さないことも必要なのだと、少しずつ感じるようになりました。
観えたところは、観えたと書く。
観えなかったところは、観えなかったと書く。
迷ったところは、迷いが残っていると書く。
当たり前のようですが、鑑定を言葉にするとき、一番守るのが難しいことかもしれません。
人は、空白を見ると埋めたくなります。
答えのない時間に、意味をつけたくなります。
私も同じです。
けれど、観えなかったことは、悪い知らせとは限りません。
良い知らせとも限りません。
ただ、その時の私には観えなかった。
確かに言えるのは、そこまでです。
龍が沈黙していたのかもしれない。
私の受け取る力が足りなかったのかもしれない。
まだ形になっていなかったのかもしれない。
どれも可能性であって、観えたことではありません。
だから私は、可能性を事実のようには書かないでいたいと思っています。
あの日、「観えませんでした」と書いたことで、報告書は短くなりました。
でも、その一行を消さなかったことを、今は大切に思っています。
鑑定は、すべてを言い切るためのものではありません。
今、観えているものを、できるだけそのままお渡しすること。
そして、観えていないものとの境目を曖昧にしないこと。
私にできるのは、そこまでです。
もしこれから私の鑑定書に「観えませんでした」という言葉があったなら、
それは答えを避けたのではなく、観えたことと観えていないことを分けてお渡しした跡だと思ってください。
空白のまま残すことも、ひとつの誠実さなのだと、私は思っています。