神との対話① 第一章 P87

神との対話① 第一章 P87

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先日、神との対話を再読(5回目)をした際に「第一章」に深い真実が書かれていることに気づきました。
一番最初に一番深い真実が書かれているから『神との対話は難しい』とされるのはないかと。
裏を返せばこの第一章を読みこなせれば、神との対話は読みこなせるのです。
この詳細記事を読んで、難しさを払拭して神との対話の世界観を堪能して下さい。
その時、あなたの視座はひとつ上に上がることでしょう

P87
『答えは問いのなかにあるではないか。ものごとが明らかに正しいのなら、それをするがいい。だが、何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決めつけだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体には正邪はない。』
飢えた子供を助けるのは、ある側面(普通に考えたら)からは正しい。
ただし、別の側面、魂の課題という側面からみれば、正しくはないかも知れない。

例えば、「飢える」という大変な経験は、その後のわずかなことで「喜び」を感じるための前段階の経験であれば、助けること自体がその経験を妨げることになるので正しくはない。

視点を変えて見れば、正しい、間違いも変わってしまうのです。
だから、正邪はないのですね。
どんな行動を取るかも各個人の選択なのです。

直感的に助けたいと思ったら助ければ良いということなのです。

『「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。

個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。その判断をくだせるように、いまのような世界が存在している、世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。

明日、病気がなくなれば、医師もいらなくなる。明日、疑問がなくなれば、哲学者もいらない。』
「飢える人を助ける」
ある人から見ればそれは素晴らしい行為で正しい
「飢える人を助けない」
ある人から見ればそれは違う視点からの判断なのでそれも正しい。(その人の課題を妨げることになる可能性があるから)

まさに主観で変わってしまうのです。
大切なのは自分を定義してその主観で判断を下す事なのです。
その判断を下す時に、他人の主観・評価などは必要ないのです。
ですので行為そのものの正邪の意味は関係ないです。

自分を定義した自分がどう判断をして、その判断に責任を持つことが重要なのです。
そのために神はこの宇宙を創ったのですから。
だから、判断を下せる機会がたくさんあるようにするために、それは自分を定義する機会をたくさん設けるために、不完璧な世界が存在しているのですね。
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