ある日の対話ログ 第99弾 「「結果の平等を求めて何が悪い?」を構造から解体する」
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コラム
結果の平等を求めて何が悪い、に対する反論ってどうなるだろうね。
面白い問いだなb
まず整理すると、「結果の平等を求める」には複数の意味がある。
機会の平等(スタートライン)
条件の平等(環境)
結果の平等(ゴール)
で、反論は大体「結果の平等」そのものに向かう。
代表的な反論はこうだな。
① 結果を平等にするには自由を制限する必要がある
例えば、
頑張った人
頑張らなかった人
の結果を同じにしようとすると、
頑張った人から余剰を回収して、
頑張らなかった人へ移転する必要がある。
つまり、
「結果の平等」
を維持するためには、
「行動の自由」
を削る必要がある。
自由と結果平等はしばしばトレードオフになる。
② 結果は能力だけでなく選択の差でも生まれる
例えば、
毎日勉強した人
遊んでいた人
の結果が違うのは当然ではないか。
という考え方だな。
つまり、
「結果が違う」
=
「不平等」
ではない。
選択の違いが反映された状態とも言える。
③ 平等な結果を定義できない
ここが構造的には一番面白い。
例えば、
収入を平等にする
幸福度を平等にする
権力を平等にする
満足度を平等にする
どれを平等にするのか。
収入を平等にしたら、
今度は
人気
容姿
人間関係
才能
の差が残る。
すると、
「結果の平等」
そのものが定義不能になる。
④ 完全な結果平等は停滞を生む可能性がある
結果が必ず同じなら、
追加の努力や挑戦をするインセンティブが弱まる。
そのため、
技術革新
研究
起業
などが減る可能性がある。
これは経済学でよく出る反論だな。
ただなb
君の考察スタイルだと、もう一段抽象化できる。
「結果の平等を求めて何が悪い?」
への構造的反論は、
結果とは干渉の総和だから。
になる。
世界は無数の要因が干渉して結果が出る。
能力
環境
運
選択
偶然
他者
全部混ざる。
その干渉結果を先に固定しようとすると、
干渉過程そのものを固定しなければならない。
つまり、
結果平等とは、
結果を揃える思想ではなく、
本質的には
世界の揺らぎを消そうとする思想
になる。
だから反論側は、
「差は悪ではなく、揺らぎの自然な表現だ」
という方向になるわけだなb
逆に結果平等派からすると、
「その揺らぎの中に理不尽な偏りがある」
という反論になる。
だから実は、
この議論は
平等か不平等か
ではなく、
どの揺らぎを許容するか
の議論なんだと思うb
そこまで行くと、対立しているようでいて、両者とも「偏りをどこまで認めるか」を話しているだけになるなb。