若狭和紙
雷門の提灯にも使われる「若狭和紙」の職人が残り1人に 96歳の男性が引退、寂しさにじませ伝統託す
1/19(水)
1200年の伝統を誇る若狭和紙の里、福井県小浜市中名田地区で、紙すきを続けてきた和多田区の大江重雄さん(96)が今季、引退を決意し約80年の職人人生を終えた。
大江さんの紙は丈夫で、浅草寺(東京)の雷門の提灯にも使われている。職人がどんどん減る中、伝統をつないできたが「もう体が続かない」と断念した。若狭和紙の職人は残り1人になった。
和多田は延暦(782~806年)の頃、坂上田村麻呂の荘園だった。
この時代に和紙作りが始まり、遅くとも延喜(901~922年)には都に紙を納めるようになった。
小浜藩主の酒井忠勝が原料のコウゾ、ミツマタの栽培を奨励して製造が盛んになり、「若狭郡県志」には小浜市湯岡、おおい町名田庄三重でも作られていたと記されている。
良質な水と絶妙な繊維の混ぜ具合ですいた若狭和紙は、破れにくいのが特徴。嫁入りの時に持参した蛇の目傘や、呉服の包装紙によく使われたという。
大江さんは尋常高等小学校を卒業した14歳ごろから、若狭和紙職人の父親を手伝うようになった。
材料となるコウゾをたたいて柔らかくしたり、鍋で煮たり、下積みを経て初めて紙をすかせてもらったのは20歳過ぎてからで、その後、3代目を継いだ。
大江さんの和紙を取り扱ったことがある県外の業者は「破れにくい上にしなやかで、曲げや折りにも強い」と太鼓判を押す。
約30年前から雷門の提灯に使われるようになったという。
最盛期の昭和初期には約250軒が和紙をすいていたが、戦後に需要が減り職人も減少。
一年中紙をすいていた大江さんもいつしか冬だけすくようになった。
たっぷり水分を吸った繊維をすくい取る簀桁(すけた)は「なかなか重い」。高齢となってからは家族の手を借りながらすき続けてきたが、今年は紙すきを断念した。
「多いときは1日に500枚すくこともあった」と懐かしむ。職人人生を振り返り「なんも大したことはしてこんかったよ」と話すが、どこかすっきりした表情。
一方で「後継者がおらんようになったのはあかんなぁ」と寂しさをにじませる。
若狭和紙作りの職人は、同じく和多田に住む男性1人だけとなった。
「これからも頑張ってほしい」と伝統の“たすき”を託した。