何年か前から、「やさしい聖書相談」という活動を続けています。クリスチャンの方や、聖書・教会に関心のある方向けの相談窓口です。日本のクリスチャン人口は全人口の1%に満たない現状であり、利益を目的としたものではありません。その中で数多く寄せられるのが、「現在通っている教会のあり方や人間関係」についての深い悩みです。
世界にはカトリック、プロテスタント、正教会など多様な教派が存在し、それぞれの共同体が独自のルールや強調点を持っています。相談を伺う中で見えてくるのは、伝統的な教派に属しているか、あるいは新しく生まれた教派であるかという外形的な違い以上に、その組織が個人の信仰をどう扱っているかが苦しみの根源になっているという事実です。
どのような背景を持つ共同体であれ、そこで純粋に神を信じ、懸命に歩もうとしている方々が大勢います。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サムエル記上16章7節)とある通り、個人の純粋な信仰への評価は、人間が教派の枠組みで裁くものではなく、神のみが判断されることです。
しかし同時に、信仰を深める場であるはずの組織が、結果として信徒を過度に依存させたり、特定の指導者への絶対的な同調を求めたりする構造に陥っているケースも存在します。教えそのものではなく、そうした運用のあり方に違和感を覚えながらも、これまでの献身や人間関係を失うことを恐れて踏みとどまっている方は少なくありません。
私は、疑問を感じたからといって、すぐにその場所を離れるべきだと急かすつもりはありません。教会や牧師も不完全な人間の集まりであり、完全な理想郷はこの世に存在しないからです。私自身、十代の頃にトルストイの「光あるうち光の中を歩め」を読み、古代のキリスト教共同体のような理想を求めましたが、やがて信仰の本質は別のところにあると気づきました。
大切なのは、立ち止まって現在の環境を客観的に見つめ直すことです。今いる場所は、あなたと神との直接的な関係を育むための助けになっているでしょうか。それとも、組織や指導者があなたと神との間に立ちはだかり、直接のつながりを遮ってはいないでしょうか。
結論として申し上げたいのは、真の信仰とは、自分と神との間に誰も置かないことです。
牧師も、教会も、教派の伝統も、神へと至る道を補助する大切な役割を持ちますが、それら自体が神ではありません。
教会の不完全さに直面しても、神に失望する必要はありません。人間の限界に躓いても、キリストに躓く必要はないのです。
私たちが最終的に見上げ、直接つながるべき大祭司は、イエス・キリストただお一人です。