命は尊い。
私たちは、幼い頃からそのように教えられてきました。
命の価値は平等である。
一人の命は地球よりも重い。
人生は素晴らしい。
生きているだけで価値がある。
こうした言葉は、社会の中でとても大切に扱われています。
実際に、それらの言葉が誰かを支えることもあるでしょう。
深く傷ついた人にとって、命を肯定する言葉が救いになることもあります。
だから、この記事は「命は粗末にしてよい」と言いたいのではありません。
また、生きることに価値がないと言いたいわけでもありません。
むしろ、その反対です。
命というものを、感情的な美しい言葉だけで包むのではなく、もう少し冷静に、理性的に見つめてみたいのです。
はたして、命は本当に尊いのでしょうか。
そして、その時私たちが言っている「命」とは、いったい誰の命なのでしょうか。
仏教には、「一切皆苦」という言葉があります。
すべては苦である。
この言葉を聞くと、暗く、悲観的な思想のように感じる方もいるかもしれません。
しかし、ここでいう苦とは、単に痛い、つらい、不快だという感覚だけを指すのではありません。
思い通りにならないこと。
変化していくこと。
失われること。
期待が外れること。
求めても満たされないこと。
握りしめても保てないこと。
そうした、生命の営みそのものに含まれる根本的な不安定さを指しています。
私たちは、自分の身体さえ思い通りにできません。
病気になります。
老いていきます。
疲れます。
眠くなります。
空腹になります。
感情も揺れます。
人間関係も思い通りになりません。
大切なものも、いつかは変化していきます。
命とは、常に安らぎに満ちたものではありません。
むしろ、命は苦しみを条件にして動いています。
空腹という苦しみがあるから、食事をします。
息苦しさがあるから、呼吸を保とうとします。
寒さがあるから、暖を取ります。
不安があるから、備えます。
孤独があるから、つながりを求めます。
痛みがあるから、危険を避けます。
苦しみがあるから、生命は動く。
そう考えると、命はただ美しいものではありません。
命とは、苦しみを避け、別の苦しみに持ち替えながら続いていく営みでもあります。
空腹を満たせば、次は失う不安が生まれる。
孤独を埋めれば、次は関係に悩む。
成功すれば、次は失敗が怖くなる。
大切なものを得れば、次はそれを失う苦しみが生まれる。
私たちは苦しみから逃れようとしながら、苦しみの形を変えて生きています。
それに気づかないまま、「もっと幸せになりたい」「もっと満たされたい」と、さらに深い場所へ沈んでいくことがあります。
そして、もう一つ見なければならないことがあります。
私たち一人の命を一日生かすために、どれほど多くの命が失われているのか、ということです。
私たちは食べなければ生きていけません。
米も、野菜も、魚も、肉も、卵も、乳製品も、目に見える形であれ、見えにくい形であれ、他の生命の営みと深く関わっています。
たとえ直接動物を食べていなくても、作物を育てる過程で、土壌の微生物、虫、小さな生き物、さまざまな生命が関わっています。
私たちの生活の便利さを保つためにも、自然環境は変えられ、多くの生命の場が奪われています。
今日、私一人が生きるために、どれほどの生命が押しのけられ、奪われ、消えていったのでしょうか。
そして、その生命もまた、生きていたかったはずです。
魚も逃げます。
虫も身を守ろうとします。
動物も痛みを避けます。
植物でさえ、環境の中で生きようとします。
命は、自分だけのものではありません。
私の命は、他の命の犠牲と無関係には成り立っていません。
ここに、生命の営みの残酷さがあります。
私たちは、その残酷さを直視することが苦手です。
だから、命を美しい言葉で包みます。
命は尊い。
命は輝いている。
人生は素晴らしい。
生きることは美しい。
もちろん、それらの言葉が完全に間違いだとは思いません。
しかし、それだけで命を語ると、命の持つ残酷な構造が見えなくなります。
一つの命を保つために、他の多くの命が失われる。
自分が生きることそのものが、他の生命の苦しみとつながっている。
生命は、苦しみを避けながら、苦しみを生み続ける。
この現実をオブラートに包み、美しいパッケージに入れた言葉。
それが「命は尊い」という表現なのかもしれません。
では、命は尊くないのでしょうか。
そうではありません。
ここで本当に見なければならないのは、「命は尊い」と言う時、私たちは無意識に「私の命」を特別扱いしていないか、ということです。
命の価値は平等である。
そう言いながら、本当は「私の命」が大切なのではないか。
一人の命は地球よりも重い。
そう言いながら、本当は「私の命」「私の大切な人の命」を中心に考えていないか。
人生は素晴らしい。
そう言いながら、本当は「私の人生」が意味あるものであってほしいと願っているのではないか。
ここを見つめる必要があります。
「命は尊い」という言葉は、時に深い慈悲の言葉にもなります。
しかし同時に、自己中心的な執着を隠す言葉にもなります。
私の命は大切。
私の人生は意味がある。
私の苦しみは特別。
私の存在は守られるべき。
私の願いは叶ってほしい。
この「私」が強く入り込んだ時、命への賛美は執着に変わります。
仏教は、そこを見逃しません。
私の命だけが特別なのではありません。
私を生かすために失われた命もまた、命です。
私が嫌う相手にも、命があります。
私に都合の悪い人にも、命があります。
私が踏みつけている小さな生命にも、命があります。
私が食べているものにも、命の営みがありました。
そう見た時、「命は尊い」という言葉は、単なる自己肯定の言葉ではなくなります。
むしろ、とても厳しい言葉になります。
私だけが大切なのではない。
私だけが守られるべきなのではない。
私だけが苦しいのではない。
私だけが生きたいのではない。
すべての生命が、それぞれの条件の中で生きようとしている。
そして、その生命は互いに関わり、奪い合い、支え合い、傷つけ合いながら成り立っています。
ここに立つと、命への見方が変わります。
命を美しく飾る必要がなくなります。
命を絶対的な価値として持ち上げる必要もなくなります。
反対に、命を粗末に見る必要もありません。
ただ、ありのままに見る。
命は苦しみを含んでいる。
命は他の命と関わっている。
命は自分だけで成り立っていない。
命は思い通りにならない。
命は常に変化していく。
命は平等に不安定である。
このように見ることです。
真の意味での命の価値とは、きれいな言葉で命を讃えることではないのかもしれません。
私の命も、他の命も、同じように条件によって生じ、同じように変化し、同じように苦を抱えている。
そこに平等を見ること。
それが、命を理性的に見つめるということだと思います。
平等とは、すべてを同じように扱えばよいという単純な話ではありません。
自分の命だけを中心に置かないことです。
自分の苦しみだけを特別視しないことです。
自分の人生だけを、特別に尊い物語として抱え込まないことです。
私も生命である。
他も生命である。
私も生きたい。
他も生きたい。
私も苦しむ。
他も苦しむ。
私も失いたくない。
他も失いたくない。
この平等感が生まれた時、必要以上に自分に執着する心は少しゆるみます。
「私の命」への執着がゆるむと、「私の人生はこうでなければならない」という思いも薄くなります。
私はもっと幸福であるべき。
私はもっと認められるべき。
私はもっと大切にされるべき。
私の人生はもっと素晴らしくあるべき。
私の苦しみは特別に理解されるべき。
こうした思いが、私たちの悩みを濃くします。
命を絶対視すると、今度は自分の人生への期待も絶対化します。
すると、思い通りにならない現実が許せなくなります。
病気になること。
老いていくこと。
失敗すること。
人に理解されないこと。
大切なものを失うこと。
自分が特別でないこと。
すべてが苦しみになります。
しかし、命をありのままに見るなら、少し景色が変わります。
命とは、最初から思い通りにならないものです。
苦しみを含んだものです。
他の命と関わりながら成り立つものです。
変化し続けるものです。
自分だけが特別に守られるものではありません。
そう見えた時、余計な期待が少し落ちます。
私の命だけが特別でなければならない。
私の人生だけが美しくなければならない。
私だけが報われなければならない。
そうした思いから、少し離れることができます。
命は粗末なものではありません。
しかし、命に自己中心的な価値のラベルを貼りつける必要もありません。
命は命です。
苦しみ、変化し、他の命と関わり、条件によって生じ、条件によって終わっていくものです。
そこに美化も卑下もいりません。
ただ見ることです。
この見方は、冷たいようでいて、実は心を落ち着かせます。
なぜなら、自分だけが特別に不幸だと思わなくて済むからです。
自分だけが苦しんでいるのではない。
自分だけが失うのではない。
自分だけが思い通りにならないのではない。
自分だけが不完全なのではない。
すべての生命が、同じように苦を抱えている。
そう見えた時、他者との比較から生まれる苦しみが少し薄くなります。
あの人は恵まれている。
私は報われていない。
あの人の人生は輝いている。
私の人生はうまくいかない。
そのような比較も、表面だけを見たものだと分かってきます。
どの命も、苦しみを避けることはできません。
どの命も、変化から逃れることはできません。
どの命も、失うことから逃れることはできません。
ならば、自分だけを特別に嘆く必要もありません。
命の価値を本当に見るとは、私の命を高く持ち上げることではなく、すべての命を同じ条件の中に見ることです。
そこには、厳しさがあります。
けれど、その厳しさの中に、平静があります。
私だけが中心ではない。
私だけが尊いのではない。
私だけが苦しいのではない。
この事実に触れた時、悩みは少し形を変えます。
自分の人生にしがみつく心がゆるみます。
他人と比べる心がゆるみます。
自分の苦しみを特別視する心がゆるみます。
自分の命を守るために、世界を敵にする必要が少し減ります。
はたして命は尊いのか。
この問いへの答えは、単純ではありません。
感情的に「尊い」と言うだけでは、見えないものがあります。
冷たく「命に価値はない」と切り捨てることもまた、現実を見ていません。
命は、苦を含みます。
命は、他の命を条件にして成り立ちます。
命は、自己中心的な執着の対象にもなります。
同時に、すべての生命が同じように苦しみ、同じように生きようとしているという平等も示しています。
そこまで見た時、「命は尊い」という言葉は、きれいごとではなくなります。
それは、自分だけを特別扱いする言葉ではなくなります。
私も、他も、同じ苦の中にある。
この平等感こそが、命をありのままに見る入口なのだと思います。
もし今、自分の人生、自分の価値、自分の苦しみに強くとらわれているなら、一度その悩みを外から見つめてみませんか。
「私の命」
「私の人生」
「私の苦しみ」
「私の価値」
その「私」にどれほど執着しているのか。
そこを見つめることで、今の悩みが少し違って見えてくるかもしれません。
気になった方は、相談でも質問でもお気軽にどうぞ。
仏教の智慧と理性的な視点から、あなたの悩みを静かに紐解いていきます。