ふと出てきた恋愛的モヤモヤに対する考察

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コラム
今日ふとカップルの横を通り過ぎた時に、たまに来るあの感覚を感じた。
ものすごく微細なもので、いつもだったら流しているような小さい反応なのだが、この感覚は何度も感じていたものであったので、これは深掘りする必要があるなと思った。

他方で、一般的恋愛観や夫婦観というものに、うっすらとした疑問をずっと抱いていた。
それはもうかなり全般にわたって、それって本当にそうなのか?という疑念があった。
恋心を抱くこと、想いを伝えることに対する逡巡、告白する、カップルになる、カップルとしての様々なイベント、その先で結婚をする、結婚してからの色々の事、それらのいくつもの要素に、それは自身から出てきている事なのか?という自問をしたら、どれだけ別の答えが出てくるだろうという可能性を感じている。
自分もご多分に漏れずそういった概念の中で育ってきているので、大いに一般的思想に染まりきっているわけなので、ひとつひとつ確認が必要だ。

そしてその上で、冒頭に書いた自分の感覚の正体は一体なんなのか、と考えた。
恐らくは寂しさ、羨ましさ、妬みといった方向のものだ。
ではなぜその感情が出てくるのか。
特定のパートナーがいないという事が、なぜ寂しさや羨望、嫉妬につながるのか。
そこで思うのは、前述の一般的思想を使っていませんか?ということだ。
なぜなら自分は自分の本質と繋がる術を知り、目に見えない存在から支えられている事を知り、さらに現世的にも沢山の存在から愛を頂いている事も知ったはずだ。それはそこを知る前とでは計り知れない幸せをもたらしてくれている。
それでも肉の喜びを渇望するのは、自らの古い慣習の記憶と、こびりついた一般的思想によるものではないかと感じる。
肉の喜びが悪いと言っているわけではないが、今回のものは健康な欲求と言うよりは、自分がよく使う表現で言えば「飢え」に分類されるものだと感じるからだ。
そのような源からくる思考は、あまり自分を良い方向に運ばないものだと思われる。

愛する事、愛される事は、肯定とか価値の保証とか、そういう現世利益的発想のものではないはずだ。
肉の喜びを追い過ぎることは、愛から遠ざかる行為である。
そこを渇望するという事は、癒されていないものがまだ自分の中にあるという事で、その部分をしっかりと認めて、受け入れて、手離す必要があるのだ。

おお、腑に落ちたー
ちょっと結論出ずにモヤっとしてたので書いてみたが、やはりアウトプットは思考の整理に不可欠ですね。
やる事さえわかればあとはやるのみ。
どう推移するかが楽しみだ♪
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