今日は献血してきたわけなんだが、献血ルームにあった「チ。」を読んでみた。
友人から以前勧められた時に、めっちゃ面白いけど毎回拷問ある、って言われて、そういうのダルいなぁと思っていたが、地動説というテーマはだいぶ面白そうなので興味はあった。
開始2ページでもう、ふぅ…となったわけだが、あまり気にせず読み進めていった。
結果4巻までしか読めなかったが、かなり興味深い作品だった。
少なくとも大いに考えを巡らせる契機を頂いた。
作品に対する感想と言うよりはその考えについて書く。
フラットすぎて全然キリスト教批判も出来る系クリスチャンのわたくしとしては(笑)聖書はひとつのツールに過ぎないので、そこの権威や正当性に固執するというのは理解が出来ない。
ただなぜそうなるのか、という構造については激しく興味がある。
時代背景やらなんやらもとっても関係してくるものではあるが、現代においても同じものがあるのは、常識と権力と既得権益を守ろうとする、人間の恐れだ。
長年常識とされてきたものを揺るがすようなこと、自身の地位や利益を損なう物事、そういったものを、合理性や正当性を見ずに、恐れから判断する。
それはなにも社会的権力を持つ人間に限ったことではない。
家族や友人などの人間関係においても、自分の立場を揺るがすような事物に対して必死に排除しようという行動は、やったことがないという人がいるのだろうか?と思う。
自分にも少なからず覚えがある。
それは弱さに起因する。
弱さとは、自分自身を信頼して愛することが出来ないことを言う。
弱さゆえに恐れ、恐れゆえに他者を貶めるのだ。自分の価値を守るために。その行動が自身の価値を担保することにはならないと根本では気付きながらも、貧して鈍するのだ。
話を戻すが、聖書の無謬性とか、正直心底どうでもいいんだよなぁ…
だって、正しいとか間違ってる、っていうこと自体が意味わからんのだよ。
聖書は聖書としてある。森羅万象のあらゆるものと同じ。それをどう解釈するもどう取り入れるかも、個人個人の問題で、そこに普遍の正解とか出そうとするからおかしくなる。
まさしく天動説を証明しようとすればするほど、美しくない形になるのと同じ。
だから、聖書には真理が書かれていて私達はただそれを鵜呑みにします、ってのも正解。いやーちょっと何言ってるかわかんないからやめときますわー、も正解。なんなら鵜呑みにしてた人がやっぱやめますも、その逆も正解。なんでもいいんよ。
ここの記事で度々言っているように、我々は個人個人で自分の宇宙を日々創造している。
そのそれぞれが触れ合って理解し合える事こそが奇跡で、そもそも別々のものだからね。
それを無理矢理に聖書が絶対の正解ですよ!ってのをみんなに強要するから、グノーシス主義みたいなすげーのが出てくる(笑)
ちょっと前にも記事にしようと思ってしてなかったが、グノーシス主義こそ、絶望の発想のお手本みたいなものだよなぁ。
簡単に言えばこの世界を作ったヤツはカスで、カスだからこんなしょーもない世界になってんだわーって感じ。んでそのカスは、完璧な世界の絞りカスの絞りカスみたいなやつで、人間にはその完璧な世界のカケラが入ってますよーみたいな話なんだよね。多分合ってるw
ニヒリズムの極地って感じだよね。
チ。の中にもグノーシスの香りがする記述があってニヤニヤしてた(知識としては大好きだからね)。
成り立ちとしては、聖書は絶対正しい!→じゃぁなんで信仰してもこんな絶望があるんだよ!→ほなそもそも神がやべーとしか考えられんやろ!って図式よなぁ。
よくよく、よくよく観察して、自分の中の固くなってるところをほぐしてあげて、フラットに見られれば、この世界はとても美しく、幸せなところであることが、誰にでもわかるはずだ。
恐怖で固く閉ざした目を開いて、力を抜いてみたら、思ったより怖くないもんなのよね。
ちょっと聖書の無謬性についてもう少し語るのだけど、聖書に書いてある事には、金言と言えるものがたくさんあると思う。
フラットな視点で見られれば、得るものは多々あると思う。
ただそれも、受け取り方次第だ。
わざとなのかわからんけど、いろんな解釈が出来るような書き方をされてるから、とんでもねー曲解だって出来る。
天動説の根拠とされている部分だってそうだ。
日が昇ってるとか沈んでるとかいう記述があるだけで、太陽が地球の周り回ってるから地球が宇宙の中心だ!ってなる。どんだけ理論飛躍してるんですかっていうね。
地球から見たらそう見えるっていうだけで、それそのまま天動説の根拠と呼ぶにはあまりに…だよねぇ。
まぁそこに関してはそもそも地動説の発想がなかったからその着想を得ること自体難しかったのもあるが、前述の権威とか利益とかなんちゃらがそこに絡まってくるから、純粋な議論すら出来なかったってことなんだよね。
なので、聖書自体が真理なのではなく、真理へ至るためのツールなのだ。
それを人間が書いてようが神が書いてようが、どっちでもいい。
内容に誤りがあろうとなかろうと関係ない。
それは聖書に限らず全てに言える事だ。
そこから自分が何を受け取るか、それだけだ。
そしてここからが大事なとこなんだけど、これらから導き出される、自分が自分として在るために必要なことは、以下のようにまとめられる。
今の自分の考えに固執せず、常にフラットな視点を持ち、他者の意見をよく聞き、それでいて自分の感覚や直感を大事に、日々自分自身を愛して大切に扱い、与えられていることに感謝し、そのことで溢れた愛を他者に分け与える。
そしてもうひとつ大事なのは、他者との関わりでエネルギーを奪わない・奪わせないこと。つまり他者を尊重して頂いた価値には価値をお返しして、自分を尊重して価値を与えたならしっかり価値を返してもらうことで循環して、お互いにハッピーな関係性を築くこと。
いいなー、書いてて幸せだわ。
最近いろんな心理学・哲学・宗教とかに触れる機会が増えてるけど、これ全部いいとこどりで自己の理論に落とし込んでいけば、独自の理論体系作れるんじゃね?と思っているので、それもどんどんやっていこうと思う。