アガスティアの葉を書いた聖者たちの信仰する哲学は
ヴェーダンタ哲学ではなく、
サイヴァ・シッダーンタ哲学です。
本日は、そのシヴァ・シッダーンタ哲学にて
「諸悪の根源」と呼ばれている「アーナバン(エゴ)」について書いてみようと思います。
これは、私自身の解釈であって、
正解ではありません。
そして、私は聖者ではありません(笑)フツーの人が浅知恵と浅い知識で書いてるつぶやき程度に捉えていただければなと思います。
アーナバン(エゴ)は、3マラ(3つの汚物・しがらみ)の1つであり
全ての悪はここから派生されるとまで言われています。
ここでいうエゴとは何か?って考えてみましょう。
「私は私であり、他人ではない」という考え方(注意:自意識はアンタカラナンと呼ばれ、アーナバンではありません)
自分と他者の境界線、
“I am” という意識、というふうに言われています。
ここで思い出すのが、聖書のアダムとイブのストーリーです。
アダムとイブは、
楽園で楽しく幸せに何の問題もなく暮らしていたのに関わらず、
「蛇」にそそのかされ、
禁断の実を食べたところ、
今までなんとも思ってなかった裸が恥ずかしくなり
それを布で覆い隠さないと、コミュニケーションができなくなってしまった・・・
(違う!っていう方は訂正してくださいw)
そして、その一件が、「諸悪の根源」となり、
私たちがこの汚ならしい世界で(笑)生きなければならない理由となった・・・
この禁断の実と、「アーナバン」、感覚的に似ていませんか?
両方とも諸悪の根源であり
何かしら、「自分は他人と違う」という認識を起こさせるもののようですね。
アダムとイブは、この実を食べる前は、同じ体でできていたし、
お互いの違いがなかった
だけど、実を食べたら、
お互いが違う存在になっちゃった
服を着ないと恥ずかしくて一緒にいることも出来なくなっちゃった
アーナバンも、この世界にたった一つの存在と言われています。
1つのアーナバンを、地球上のすべての人類で分け合っているのです!
禁断の智慧の実、むっちゃ多っ!!(笑)
私たちが、
別々の存在でなければいけないという、
この不条理すぎる、この世界が構築されているそもそもの理由。
そもそもの苦しみの根源。
そもそも、悪が誕生する根源的理由:「私はあなたではない」
これが、アーナバン(禁断の実)だったり、そうじゃなかったり。
悟ってもなんでもない、
フツーの人間である私自身の解釈なので、悪しからず。
ちなみに、どんなに悟り切った聖者も
ブッダもキリストもムハンマドも・・・
アーナバンは死ぬまで、生きている限り絶対に魂から離れません。
生きているときは絶対的存在ですが、
解脱するときにようやくアーナバンから解放され、
神様と同じ場所に行けます。