怒りというもの

怒りというもの

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アクタージュ の打ち切りを聞いて思ったのは、人は全ての感情に盲目的になるのだなということである。恋は盲目というが、悲しみでも盲目になるし、今回のように”怒り”でも盲目になるのだなと思う。自分では冷静な判断ができていると思っていても、怒りは熱いことが全てではない。時に冷たく、鋭く、我々の身に刺さるものである。本当に怒っている時、人は冷静な判断ができなくなる。”普通に振る舞う”のは簡単だ。それが”大人の対処”だと思うのなら、大いにそうすればいいだけだ。ただ、この時ばかりは第三者というものが大事になってきたんだと思える。その人の本当の価値を測る行為は、近づきすぎると見えにくく、感情で動くと大変満足する結果に終わるはずなのだから。

満足という思いは感情に最も近しい行為である。

今でも思うが、原作者はおっぱいを揉むスケベ野郎以外の点においては資産になりうる存在だった。アニメ化もせずに売り上げを伸ばしてきた力も一人の力でできたものではない。ただ私はマツキ先生のやり口はどうも”黒子のバスケ”とダブって見える。ジャンプというものがどういうものか完全に理解しすぎている。どうすれば売れるか理解できる人間故に、”オリジナリティでの売れ方”
”新しい金脈探し”にめっぽう弱い。さらに自己投影させたキャラというのは、漫画を描くにあたって、・・・売れるためには一生に一度しか使えない諸刃の剣なのである。アクタージュ はその2つの観点から、”2作目で売れるのは困難である”と私に思わせた。そんな、おそらく一度しか描けない名作を我々は失ったのだと思うと、それは痛手としてデカすぎると思えてならない。長期休載(未決)として、マツキ先生には「今までを超える漫画を描かない限りアクタ再開はない」と一言いえば済む話ではないのか。資産を簡単に斬る行為をするジャンプのやり口にはあまり賛成できない。前例に倣うのは思考を停止させているせいか?

綺麗な世界になったもんだと思う。私は一度だけ不審者の男に話を聞いたことがあった。彼はいわゆる”底つき”だった。底にいる人間のする最悪な足掻きが不審行為に走らせたという。誰も救わない。誰も他人に興味がないからだ。そんな彼らが救われる唯一は”経済の歯車になること”だけなのだ。それがマツキという人物だったのかもしれない。

底つきの人間がまずやるべきことは、”現状から抜け出す”ことではない。”現状を愛し、住処に変え、現状の利点を考えることである。”

検討を祈る。

おわり。
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