情熱が消えたのではなく

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あんなに好きだったのに、今は道具を出す気にもなれない。そういうご相談をよくいただきます。そして多くの方が、同じ一点をご自身に突きつけていらっしゃいます。「私は飽きたのだ」「情熱が冷めてしまった人間なのだ」という一点です。

この誤解が生まれるのは、とても自然なことだと感じています。私たちは小さいころから、好きなことは一途に続けるものだと教わってきました。続けている人は褒められ、やめた人はどこか根気がないように語られます。だから手が止まった自分を見たとき、真っ先に浮かぶのは「自分の熱が足りなかった」という説明になります。ご自身に厳しい方ほど、迷わずその結論に行き着かれます。

ただ、波動を見せていただくと、少し違う景色が広がっていることがあります。好きだった対象そのものへ向かう線は、実は切れていません。細くなって、奥のほうへ静かに沈んでいるように映ることが多いのです。切れた線と沈んだ線は、手ざわりがまるで違います。切れた線は思い出しても何も動きませんが、沈んだ線は、誰かが楽しそうにそれをしている場面を見たときに、胸の奥がわずかに反応します。ちりっとする、あるいは少し目をそらしたくなる。その微細な動きが、線が生きている合図です。

では何が起きているのでしょうか。多くの場合、そこには「その分野を通して受け取った別の記憶」が重なっています。うまくできなかった日の気配、比べられた場面、義務になっていった時期の疲れ。好きという感情は無傷でも、その手前に薄い膜が張られていて、手を伸ばすたびに膜のほうに触れてしまいます。膜に触れる感覚が痛いので、心は賢く、対象ごと遠ざけて守ろうとします。興味が消えたように見える状態は、防御の形をとった記憶のあらわれであることが少なくありません。

ですから、いま無理に再開しなくてもよいと私は考えています。膜が残っているうちに手を伸ばすと、また膜に触れて、さらに遠ざける結果になりやすいものです。かわりにできることがあります。なぜ離れたのかを思い出すのではなく、いちばん楽しかった一日を思い出してみてください。誰と、どんな時間帯に、どんな空気の中でそれをしていたか。その日の温度だけを、ただ味わってみるのです。膜は、責められない場所で少しずつゆるみます。

戻る日が来るとも、来ないとも、私は申しません。以前とまったく同じ形で戻るとは限りませんし、姿を変えて表れることもあります。作る側から見る側へ、深く潜る形から気楽に触れる形へ。それは冷めたのではなく、その方に合う距離が変わっただけなのだろうと感じています。

好きだったという事実は、続いているかどうかで採点されるものではありません。一度でも夢中になれたという経験は、その方の感受性の証として残り続けます。いま手が止まっていても、その証が減ることはありません。

沈んだ線がどこへ向かっているのか、もう少し細かく見てみたいと思われましたら、プロフィールページをのぞいていただけましたら嬉しく存じます。
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