デザイナー・哲学・宗教を考える

デザイナー・哲学・宗教を考える

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コラム
 わが人生を取り巻いている環境の中で一体どう生きていったら価値ある豊かさを手中にすることが出来るであろうか・・・を考えてみたい。
  「価値ある豊かさ」をどう定義していけばいいのか、
ある雑誌のアンケートによると、「幸福になりたい、」「運命をよくしたい」
そのために今「信仰」しているという。なにを信仰しているかは別として。すべからくすべての人は「信仰」していると私は思っています。○○教とか○○会などといった既存の宗教、新興宗教を信じている人もいれば、何も信仰していない「無神論者」という「信仰」をしている人もいる。その他「師」のいうことを信仰している、金がすべてといった物質を信仰している人もいる。
 つまり人はすべて信仰しているのであって、その「信」が揺らぐことないように日々生きているという事になる。

 いずれにしても人の信仰態度はおおむね自らの幸福、自らの運命好転というものを目的としていて、「人格、人間性の向上のために」と答える人はすこぶる少ないのである。
幸福になりたい、運命をよくしたいと思う事は人間の本能だといってもよい。
 しかし、多くの人が忘れている、というより知らないことがある。それは運命というものは「心が変わらないと運命も変わらない」という事である。
 神社仏閣にお参りしても、心で日々念じてみても、自己啓発セミナーに行っても、それで運命が良くなることはない。もし、良くなったという人がいたとしたら、そのひとがそうしたことによって多少なりとも「心が変わった」からである。
 運命を変えるという事は、将来の形を変えるという事である。
 これらの運命という事に対して古代の人々はどのように考えていたのかを
釈尊の時代以前のバラモンではどうとらえていたのかを調べてみました
 神意論、宿命論・・・宇宙の最高神を立てる「正統バラモン」の主張で現象界の発生も消滅もすべて全知全能の神によって支配されね人間の幸不幸もすべて最高神の心のままに決まるとする考え。
 だから、我々の運命は神によって差配されるわけだから、たたえる歌を歌いヤギ、ヒツジなどの生贄をささげ祈祷しなければならない。その役目を追っているのが「バラモン種」といった人間。身分制度によって最高の位置づけなのだ。その下がクシャトリヤといった武士階級、さらに商工業を営むベッシャー最下層の奴隷階級としてシュドラーとはっきりと区分けされていた時代。
 当時の人々は神も人間と同じような感情を持っていると考えられていた。だから神の機嫌を損なうことのないようにお供えしたりしなければならないという事になり、様々な儀式(神をたたえる儀式)があって、フィフィ教といわれている人々の儀式は「火の神」を祀るという事で護摩を焚き祈りをささげるといったことをしたのであるが、この儀式は数千年の時を経た今でも、各宗教団体で行われている。
 この考え方は、①人間の自由意思が全く認められていない②自分の利益のために動物やはたまた人間までも生贄に捧げるということで、生命尊重のこころがない③我々の運命はすべて神様の手に握られているいるのであって、我々の手によって運命を開拓することは許されない④すべては神の御心次第ということで、自らの人格向上のための努力の余地はない、ただ祈祷し、儀式をせよという事になっている。

 この考えは根強く現代の仏教界もキリスト教会、神社、新興宗教など幸福は向こうからやってくるのだといった思想が蔓延している。つまりは「他力本願」の心構えであり自助努力の方向性がまちがっていると私は思うのである。
 現在の我々の運命はすべて過去世の宿業、善悪の結果として決まっているのであって、人間の自由意思によってどうなるこうなるというものではないという考え方である。日本仏教の考え方には神意論とこの宿命論とがある。
 なんのことはない2500年前と現代の宗教観にそんな大きな変化がないという事を調べた結果わかったという話です。・・宗教編つづく

 という事で本日の一筆👇  はんげあめ・・

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