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みやび❤️本当の自分を取り戻そう❤️
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ぬくもり応援団長(⋈◍>◡<◍)。✧♡
女性
  • 本人確認
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  • 販売実績 7
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納品ごとの予算目安
  • 悩み相談・カウンセリング

    ★友達感覚で気軽にお喋り♪

    ★婦人科系病

    ★発達障害の配偶者との関係

    ★虐待経験とその後遺症など

    ★介護問題

    ★モラハラDV・離婚について

    ★難病との上手い付き合い方♪

    ★パワフルな生命力を持ち合わせています♪

    ★初対面の方とも直ぐに仲良くなれます♪

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「もうこんな年齢だから」とあなたの可能性を諦めないで!♡いくつになっても再スタートは切れるのです♡

✅家事や育児の合間に ✅夜勤明けに ✅お仕事の合間に ✨過去を思い出して涙ぐんでしまうとき ✨孤独を感じるとき ✨なんとなく疲れたな...と感じるとき ✨とにかく話を聞いて欲しい!とき 上手くお話し出来ないかもと不安な時も大丈夫ですよ。ゆっくりお話ししましょう。

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ポートフォリオ

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職種・スキル

得意分野

  • ・★友達感覚で気軽にお喋り♪

    ・何気ない日常のこと ・楽しかったこと、嬉しいこと ・悲しく、悔しく、辛いこと ・お友達や家族には言えないようなこと ・ただただお話ししたい時 人に話せないことを抱えているからこそ辛さが増す時があります。 どんなお話でも大丈夫です(✿◡‿◡) 機密保持契約を結んであります。 どんなお話でも絶対に漏れることはありませんので、安心してお話しください。

    ・★婦人科系病

    ・21歳で重度の子宮内膜症と診断され、子供は諦めた方がいいと言われましたが奇跡的に2人を出産しました。 ・再発を繰り返し33歳で右卵巣を摘出し、44歳で子宮卵巣を全摘しました。 子宮がなくなっても女性であることには変わりがないのに、 女性ではなくなってしまうような気持になり悲しく落ち込みました。 不思議な思いですよね..。 当事者にしか理解できない思いに寄り添います...。

    ・★発達障害の配偶者との関係

    ・元夫はアスペルガーでした ・私は典型的なカサンドラ症候群 元配偶者とは意思疎通がとても難しい時が多く、それは私が悪いからではないかといつも自分を責めていました。 夫婦でありながら孤独感は増すばかり...。 終いには体調も崩してしまいました。 アスペルガーなパートナーの日々の困ったこと、悲しいことなどどんなことでも吐き出してください。

    ・★虐待経験とその後遺症など

    ・幼い頃から父に殴られて育つ ・猿ぐつわ、手足を縛られて放置される。 何故か家族の中で殴られるのは私だけで、母は止めることもなくただ見ているだけでした。 ただただ早く家を出たいとそればかり考えていました。 誰にもトラウマはあるものです。 人に話せば引かれてしまったり、笑われてしまうかもと思うことも、私は引いたり笑ったりは決してしません。 吐き出して軽くなりましょう。

    ・★介護問題

    ・父がアルコール中毒 ・両親、私達夫婦が共依存 ・そんな両親を介護、看取る 父から「家族より酒が大切」と真顔で言われひっくり返りました。 両親は共依存の関係だったので父のアル中は治りませんでした。 そして私達夫婦も共依存であり、共依存の延長線上は破滅だと確信するようなことも経験しました。 共依存で苦しんでいる方、そして周りに共依存の方がいらっしゃる方もお話しください。

    ・★モラハラDV・離婚について

    ・高圧的な言動や無視 ・長い年月に終止符 何回も離婚を試みましたが出来ず人生を諦めたものの「自分を生き切りたい」と一念発起! 離婚には沢山の思いと、沢山やることがてんこ盛りです。 するかしないか悩んでいる方、何から手を付けたらいいのか分からない方、どんなことでも構いません。 私は離婚しましたが、離婚しない道もまたあるのです。 お話しして、気持ちを整理するのも大切です。

    ・★難病との上手い付き合い方♪

    ・2010年 難病の重症筋無力症を発症 今思えば子供の頃から同じ症状があり身体の不具合が何なのか全く分からず、子供の頃は自分が精神的に弱いだけなのかと自分を責めるばかりでした。 この身体を持って生きなければならないやるせなさ...。 ご本人はもちろん、ご家族も不安だと思います。 不安など溜め込むとストレスとなり悪化しやすいものです。 お話して、少しずつ不安は取り除きましょう。

    ・★パワフルな生命力を持ち合わせています♪

    沢山の病気を経験し今も継続中ではありますが、生命力だけはとても強いらしく、難病患者でありながら妙に前向きです。 それは生まれながらの性格もあるのでしょうけれど、ここまでになるには本当に沢山の葛藤がありました。 この溢れる生命力をおすそ分け出来ればと嬉しく思います(. ❛ ᴗ ❛.)

    ・★初対面の方とも直ぐに仲良くなれます♪

    子供の頃は人見知りが激しく、そんな自分が嫌いだったのですが、いつの頃からか何か吹っ切れたように初対面の方とも直ぐに仲良くなれるようになりました♪ お気軽に声を掛けてくださいね~☆*: .。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

資格・検定

  • 普通自動車第一種運転免許 取得年 : 1983年

  • 硬筆書写検定 取得年 : 1983年

経歴

職歴

  • 誕生 2025年9月 2025年9月

    ・父は職人、母は専業主婦の元に戸籍上は二女として産まれる。 2025年9月 2025年9月

    戸籍上は二女と言うのは、私には産まれて数日で亡くなった姉がいます。 母はとても身体が弱く、何回も流産を繰り返していました。 やっと産まれた姉は父の腕の中で亡くなったそうです。 その後も流産を重ね、嵐の日にやっと産まれたのが私です。 私の名前はその全てを知っている産婦人科の先生が「何があっても生きていく」と願いを込めて命名してくださいました。 小学生の頃、自分の名前の由来を発表する授業があり、その意味を親から聞いた時は「これからどんな人生が待ち受けているんだろう」と不安になったことを覚えています。 「名は体を表す」と言いますが、今思えば確かに様々な事を経験させてもらえたなと思います。 良いことも悪いことも全ては経験。 確かに何があっても生きてきました。 そしてこれからも私は生きていきます! *匿名で登録させていただいておりますので、氏名及び実際の期間などは非公開とさせていただいておりますので何卒よろしくお願いいたします。

  • 幼稚園 2025年9月 2025年9月

    ・人見知りでとても静かな女の子でした。 2025年9月 2025年9月

    お喋りし始めるのがとても遅かったので、3年保育でお願いしようと幼稚園の面談へ行くと「自分の意思が伝えられない状態での入園は可哀想すぎる」との理由で断られてしまい、1年待って2年保育で入園しました。 だからとてお喋り出来るようになったかと言えばそうでもなく、相変わらず無口で人見知りも激しく、いつも誰かの後ろに隠れるようにして、いつもモヤモヤした気持ちを抱えている幼稚園児でした。 実は大人しいだけではなく、生意気にもみんなの遊びがくだらなく見えてしまい、小さなロッカーに身を潜めその時が過ぎるのを待っ様な子でもありました。 すると先生が気を使って「みんなと遊びましょう」と私の手を取り遊びの輪の中へ入れるのです。 嫌で仕方がないのに嫌だとは言えず、モヤモヤしたまま何も楽しむことも出来ずに終わってしまうことはいつものことでした。 入園とほぼ同時期に弟が産まれたのもそのモヤモヤの原因の一つでした。 ある日、幼稚園で私は突然泣き始めてしまったのです。 自分でもその状況が理解できず一層泣いてしまい、もうパニックです。 先生に何があったのかと訊かれても、泣きながらただただ首を横に振ることしかできませんでした。 母が弟を乳母車に乗せてお迎えに来てくれて、「先生から電話をもらって、心配したんだよ。」と言われてもやっぱり何も答えられず下を向いたまま歩いたのを覚えています。 寂しかったんでしょうね。 自分が幼稚園に行っている間、母は弟と一緒にいるんだと思ったら悲しくなってしまったんだと思います。 数年前に母を見送った時に「私は母を助けるために産まれたんだな。」とふと思ったことがあります。 弟が母のお腹にいた頃のことです。 産婦人科には電車で行かなければならないのですが、3歳の私は席が1つ空けば必ず母を座らせ私は母の膝を掴んで立っていることを心掛けていました。 それは電車だけではなく何処へ行ってでもです。 その記憶は今でもハッキリ覚えており、いくら幼くとも母を優先することは自分の使命の様に感じていたのです。 母はとても身体が弱く流産を何回も繰り返していたので、もしかしたら、父や産婦人科の先生や看護師さん、周りの人達に「お母さんを大切にね」と刷り込むかの如く言われ続けていたのかも知れません。 母は亡くなるまでその電車内での話をしていましたし、その後も「お姉ちゃん(私)なら何とかしてくれるに決まっている」といつも言っていました。 その後も年を重ねるごとに母の私への依存は加速度を増して行き、私を苦しめていくのですが原点はそこにあるのかもと書きながら思います。 時は同じく、ある日のこと叔母が我が家に遊びに来るという時にひどい雷雨になりそうで、母は叔母を駅まで迎えに行くから、私にまだベビーベットの中で眠っている産まれたばかりの弟を見ていてくれと言い残して出かけていきました。 みるみる内に外は暗くなり、激しい雨と共に大きな雷まで聞こえてきました。 私は怖いのはもちろんですが、こんな時に弟が泣き始めてしまったらどうしようかととてつもなく不安にもなって、ベビーベットの柵にしがみ付きながら、どうか泣かないでくれと弟をただただ見つめていたのです。 どのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。 玄関のドアが開き、そこに母と叔母の姿を見た時は心から安堵して泣きそうになりました。 濡れた服を拭きながら母はベビーベットにしがみ付いていた私に、 「この子ったら、見ていてねって言ったら本当にただ見てたのね。馬鹿じゃないの?」って笑いながら叔母に言ったのです。 幼い私はとても悲しくなり、何も言えず母の笑い声を聞いていた記憶があります。 私は「お留守番、頑張ったね。ありがとう。」と言って欲しかったのだと大人になって感じました。 そこで自分の気持ちを言えたり、泣くことが出来たのならどんなに楽だったかとも思いますが、私はそれが出来ない子供でした。 それは大人になってまで私を追い詰め苦しめていくのです。 母の呪縛ってやつでしょうかね...~~>_<~~

  • 小学生 2025年9月 2025年9月

    ・相変わらず大人しい子供でありながら、その殻を破りたくて挑戦し続けていました。 2025年9月 2025年9月

    幼稚園からほぼそのままのメンバーで小学校に入学しました。 相変わらず自分の気持ちを表現するのは苦手で皆からは「大人しい子」と言うレッテルを貼られていました。 家庭訪問で先生が母に「あまりにも大人し過ぎて、教師の私でもどう接していいのか分からない」と相談されたらしく、簡単に言えば「何を考えているのか分からない」ってことだったそうなんです。 母はよく私のことを内弁慶だと言っていましたが、確かに外よりは意思表示はしていたかとも思います。 が...、本当の気持ちは声に出さないでいたように思います。 また母とのことになってしまいますが、私が低学年の頃、母が体調を崩し父と病院へ行きました。 私は弟と留守番をしていて、両親の帰りが遅く不安になっていた頃、玄関が開くとそこには父に抱えらてやっと立っている母がいました。 母を布団に寝かせ、私は不安で母の枕元に正座をして黙って座っていました。 母は私に「あんた達がいるから私は入院できないのよ。分かる?その意味。どうせ分らないだろうけど...。」と言うのです。 私はその突然の思いもよらない母からの言葉に驚いてしまい、私と弟のせいで母は辛い思いをしなければならないんだと思い、だからとて今の私にはどうしたらいいのか分からない...と母と目を合わすことが出来ず下を向いて自分の両手を見つめていた記憶があります。 「自分の存在自体が罪」 そんな気持ちだったのだと思います。 長いこと自分は愛される資格がないとさえ感じていて、実は「私は愛されてもいいんだ」と思えるようになったのはつい最近のことなのです。 幼い頃のちょっとした言葉が棘となって、長いこと人を苦しめていくことってあるんですよね。 そして 父からは物心がついたころから結婚して家を出るまで殴られて育ちました。 母も弟も殴られているところを私は一度も見たことがありません。 いつも私だけが殴られるのです。 父は職人でしたから筋肉隆々でありながら容赦はなく、顔であってもお構いなく殴ってくるのでよく痣を作りながら登校していました。 殴られて口が開かなくて痣だらけでも学校を休んだら負けたことになると思い、絶対に休みませんでした。 今なら直ぐに通報されてしまいますが、昔は先生にどうしたのかと訊かれても誤魔化すことは出来たのです。 殴るだけではありませんでした。 猿ぐつわをされて手足も縛られて外に出されたり物置に閉じ込められたりもしていました。 ある日、本当に殺されてしまうかと思い「殺される!!!」と思わず叫んでしまったのですが、見ていた母は父を止めるのではなく私に「人聞きの悪い!!!」と怒鳴り母にも殴られたことがありました。 こんな環境の中で自分の本心を言えるわけがありません。 しかしです!! 本心を口にすることは出来なくとも、私の中ではいろんな事を考え意思を持っていました。 思いを表現できない自分がホトホト嫌になって、自分の殻を破りたくて様々な事にチャレンジし始めるのです。 大勢の前で話が出来るようになりたくて集会委員になってみたり、学級委員に立候補してみたりと勇気を出して行動してみました。 結果はどれもこれも散々なものでしたが、そもそもチャレンジすることが私にとっては大きな第一歩だったので後悔はなかったと記憶しています。 丁度その頃、健康優良児として表彰されたのです。 確かに年に一度の運動会のためだけに他の日は嫌でも通学していた私でした。 身体を動かすことが大好きで、昼休みに鉄棒で足掛け回りを何回出来るかに挑戦したことがあります。 私が回って友達が回数を数えてくれていて、その時はものすごく調子もよくクルクル回ってどれくらい時間が経ったのか...。 あれ?と何か周りの雰囲気に異変を感じて止まってみると、広い校庭には友達と私2人だけ…。 いつの間にか昼休みは終わって授業が始まっていたのです。 慌てて教室に戻ると...、もちろん先生からは叱られて、同級生からは笑われて、初めて廊下に立たされたのですが、それまでお姉ちゃんの優等生でいることを頑張っていた私は廊下で立たされている自分が滑稽で面白くクスクスと笑ってまた先生に叱られるを繰り返してしまった思い出があります。 そんなにも身体を動かすことが大好きだったのに5年生の頃から体調の変化に気が付き、様々な病院に行くのですが検査の結果は異状なし、その症状は原因不明とのことで結局、成長期の身体の変化に伴うものではないかで終わってしまいました。 これは5年生から中学3年生ぐらいまで続きました。 症状からして、今思えばこれが重症筋無力症の最初だったのだと思います。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 講演

    全国神経内科医セミナー「医師に話しにくいこと」  2022年9月

  • 執筆

    重症筋無力症友の会会報 2025年3月

  • 執筆

    重症筋無力症友の会会報「点をつなげる」 2025年8月

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