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最終ログイン:4ヶ月前
稼働状況 対応可能です
寄り添い系お話相手
女性
  • 本人確認
  • 機密保持契約(NDA)
  • インボイス発行事業者 未登録
  • 販売実績 2
  • 評価 5.0
  • フォロワー 118
納品ごとの予算目安
スケジュール

☆ 9/23(火)22時〜待機予定です。

「私なんて…」と心の中でつぶやいたあなたへ。話してみ​​ませんか?ひとりで悩まなくて大丈夫です。

こんなお悩み、ありませんか? ・いつも人の目が気になって、顔色ばかり伺ってしまう ・嫌なことも断れずに引き受けてしまい、自己嫌悪になる ・夫婦関係・人間関係がうまくいかず、お酒で気を紛らわしてしまう ・ヒステリックに怒ったあと、落ち込んで自分を責めてしまう ・ママ友付き合いに疲れて、本当は一人になりたい ・どこかいつも「不安」に支配されている

ポートフォリオ

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職種・スキル

ビジネス・クリエイティブツール

  • WordPress 経験年数 : 1年未満

  • ChatGPT 経験年数 : 1年未満

  • Canva 経験年数 : 1年未満

プログラミング言語・フレームワーク

  • CSS 経験年数 : 1年

  • HTML 経験年数 : 1年

得意分野

  • ・話し相手・愚痴聞き・悩み相談

    ◆ 共感力高め ◆ 感受性豊かなので、いつでも泣けます ◆ 辛い気持ちが刺さるようにわかります ◆ 敏感が故に鈍感なこともあります ◆ 大きな声で話し、大きな声で笑います(深夜帯、要注意) ◆ ユーモアのセンスがあったりします ◆ 相手のいいところを見つけるのが得意だったりします ◆ 子育ての辛い気持ちに寄り添えます ◆ 学校役員の大変さを理解していますので、ご相談にのれます

    ・夫婦関係相談

    夫と10年近く会話ができなくなりました。私は自分の意見を言うことが苦手なので、「嫌だ!」とか言うことができなかったことが原因です。(夫の名誉のために。暴力はありませんし、基本真面目で優しい人です。)そのため、私が夫を避けるようになり、話しをしなくなったのです。でも、それを助けてくれたのは、見ず知らずの人たちです。自分と同じような人たちがいて、話しを聞いてもらったり聞いたことでした。

    ・ハンドメイド(手芸・ミシン)

    子どもの頃から手先が器用で、高校生ぐらいから簡単な洋服を作っていました。20代半ばから10年ぐらいニットソーイングにハマって、自分や子どもたちの洋服をよく作っていました。某ニットソーイングクラブの全教室あげてのファッションショーで2年連続出品。子どもの七五三に合わせて作ったフォーマル的な洋服を作って「親子賞」を頂きました。ポートフォリオに、子どもの部活のお友達に作ったミサンガをのせています。

    ・接客業のお悩み

  • ・レイキ・OSHO禅タロット他

    ◆ 心のブロック解除で潜在意識の書き換えができます。但し、回数が必要です。やればやるだけ外れます。 ◆ 香りレイキ サードディグリー・ギャラクティック多次元レイ*キサード・現代霊気法レベル1ー愛に満ちたエネルギーはとても心地いいです。(*'▽') ◆ OSHO禅タロットカード 1年 たま~に、友達や知り合いにやってあげながら、現在も勉強中です。OSHO禅タロットカードは奥が深いです。

経歴

職歴

  • ※ 年齢非公開で活動しております。そのため実際の期間については脚色していますので、ご了承ください 2025年3月 2025年3月

    ・私の生い立ち / 誕生から幼稚園まで 2025年3月 2025年3月

    私は東北出身の父と母のもとに、第一子として生まれました。 身長45センチ、体重は2500gと少し小さ目でした。 生まれたときの記憶はもちろんありませんが、私は自分がこの世に生まれてきた理由について考えると、両親を喜ばせたい、幸せにしたいと思いがあったのではないかと感じています。 小さな体で生まれながらも、両親に愛されたいという気持ちは強く、幼いころから自然とその思いを抱えて生きてきたのだと思います。 しかし、私の幼少期は平穏ではありませんでした。 父と母、そして父方の祖母との生活は、いつも近くに張り詰めた空気に包まれてました。 父と母は日常的に口論を繰り返し、祖母と母の関係もぎすぎしていました。 祖母はもともと男の子ばかりを育ててきたので、私が初めての女の子であることを非常に喜び、可愛がってくれました。しかし、弟に対しては厳しい態度をとり、その差に戸惑うことも多々ありました。 家の中は常に緊張感に満たされており、私は小さな体を縮めながら、少しの音や声の変化にも敏感になり、心の中で「また怒鳴り声が聞こえるのではないか」と身構えていました。 弟が生まれて1年ほど経った頃、母はフルタイムで働くようになりました。 それまで母が家にいてくれる安心感がありましたが、仕事に出るようになると、祖母と私、弟だけで過ごす時間が増えました。 母は帰宅すると家事に追われ、疲れやイライラから、私たちに八つ当たりのように怒ることもありました。 家の中の空気はピリピリしており、父と母の間で勃発する小さな喧嘩の度に、私は緊張し、弟と一緒に息をひそめていました。 父は平日は普通の中小企業で働き、土日もあまり家にいない人でした。 土日は一緒に遊んでもらいと思っていても、「お父さんは忙しいから」とあまり一緒に遊んでもらった記憶がありません。ただ、仕事から帰ってきた父のあぐらの上に座るのがとっても好きでした。 優しい人ですが、祖母と母の不仲にイライラしており、母に辛く当たることが多かったです。 幼稚園は自宅から徒歩1分ほどの距離になりましたが、バス通園で給食もあり、プールも楽しめる環境でした。 ところが、私は季節の変わり目に弱く、風邪をひくと胃腸炎になったりすることが多く、頻繁に休むことが多かったです。酷い時は2週間ほど連続でお休みすることもありました。 大好きなプールも、風邪や中耳炎でほとんど入れず、運動会も練習はしていたもの、本番では体調を崩してしまい、結局参加できないことが続きました。 幼稚園の2年間で運動会に参加できたことは、一度もありませんでした。 また、私は小食で好き嫌いが多く、給食を食べることも一苦労でした。 友達が楽しそうに給食を食べる中、私はなんとなく口に運べ、食べることに集中していました。でも、食べきれないことがほとんどでした。心の中は不安と緊張でいっぱいで、食事を心から楽しむことはできませんでした。 夏休みになると、祖母も少し仕事が続くようになり、弟と私だけで留守番する時間が増えました。 家に二人だけでいると、静まり返った空気に不安と孤独を感じました。 まだ幼い私にとって、その時間は心細くで何度も「誰か帰ってこないかな」と窓の外を眺めては思う日々でした。 しかし、同時に「お姉ちゃんとして弟を守らなければ」という責任感も芽生え、自然と心が引き締まっていったのをなんとなく覚えています。 また、夏休み、冬休みになると、母方の祖母の住む神戸に新幹線でよく行ったのですが、乗り物酔いが酷かった私には苦痛でしかありませんでした。毎回酔っては吐いてでしたし、祖母のところに行ったからといって、どこかに連れて行ってくれるわけではないので、つまらなかったです。 また、母方の祖母はなまりがつよく、ほとんど何を言っているのかわかりませでしたので、ほとんど会話にならないのです。 幼稚園の年長ごろ、祖母から編み物を学ぶ機会がありました。 最初は簡単なコースターのようなものを作ってから始めましたが、糸を選び、編み目を整える過程は、やがて私にとって集中力を養う大切な時間になりました。 編み物をしていると、家の中の緊張や不安が少し和らぎ、祖母との時間を楽しむことができました。 祖母の手仕事を通して、私は細やかな作業や手先の感覚に興味を持つようになったのです。 母も器用な人で、弟と一緒にお揃いのセーターを作ったり、幼稚園のバッグもオリジナルで作ってくれたりしました。 母の手作りのものは、私にとって特別な宝物であり、母の愛情を感じる瞬間でもありました。 幼い私にとって、母の手作りは日常の中で感じる安心感の象徴でもあり、家族の複雑な関係に埋もれた心を少しだけ温めてくれる存在でした。 夏になると、近くで花火大会が開催されました。 でも、私は花火の大きな苦手で、大嫌いでした。 夜空に打ち上げられる光と轟音に、体が固まり、耳を塞ぎたくなるほど恐怖を感じました。 家族や友達が楽しそうに花火を考えている中、私は恐怖心と不安の中で立ち尽くし、心の中で「早く終わってほしい」と願っていました。 それでも、家族の楽しそうな姿を見て、少しだけ外に出る勇気を振り絞る、そんな複雑な思いを抱えていたと思います。 こうして振り返ると、私の幼少期は家族の複雑な人間関係、体調の弱さ、そして日々の不安に彩られたものでした。 それでも、祖母や母から受け取った愛情、弟を守ろうとする責任感は、私に生きる力を与えてくれたのだと思います。 喜びと不安が交錯する日々の中で、私は少しずつ感受性を育み、人に寄り添う心の基盤を形成していったのかなと感じています。 幼いながらも「しっかりしなければ」と思う心、家族の愛情を感じ取ろうとする心、それらが私の人格の根底に深く刻まれていったのだと感じています。

  • 私の生い立ち2 2025年3月 2025年3月

    ・小学校入学~ 2025年3月 2025年3月

    小学校入学 小学校に入学した私、最初から「給食」という大きな壁にぶつかりました。 あれがほんとうに苦手で、残したら片づけてもらえないという地獄システム。 机の上に嫌いなものがあったままの時間は、修行としか思えませんでした。 そんなスタートを切った小学校生活ですが、まだまだ波乱は続きます。 入学祝いで買ってもらった自転車も、なかなかパンチがありました。6年生まで乗れるようにと、補助輪付き24インチのママチャリ。しかも、有名アニメキャラクターデザイン。正直めちゃくちゃ恥ずかしかったです。近所のお友達の小さ目の自転車を勝手に借りて乗り回していました。(笑) 小学2年の時に引っ越しを経験しました。団地で公園も友達もいっぱいの賑やかな環境から、田んぼだらけの木造平屋、そしてトイレはぼっとん便所!もう最悪!って思ってました。更に集落から少し離れているからお友達の家まで遠くて遠くて・・。急に孤独感がレベルアップしました。 新しいクラスには「じゅんくん」という重度の自閉症の男の子がいました。 最初は彼がヒステリックになって友達の腕をかむのが怖かったんだけど、何度も見ているうちに「じゅんくんの気持ちわかるかも…」って共感し始めちゃった。「私の腕、かんでもいいよ」って心の中で思ってたけど、結局油断してる子の腕をかんでました。そんな彼とは5年間同じクラスでした。 小学3年になると、弟の入学に合わせて私も学童へ。 ここ手芸を教えてくれる若い指導員さんが大好きでした。 休みの日には押しかけて遊びに行くくらい。 家には居場所なかったし、学童が私のオアシスだったんです。弟が学童で問題を起こしたとき、私が「弟の気持ちはね…」って指導員さんに伝えちゃったら、母に「余計なこと外でしゃべるな!」と怒られました。 家の状況もけっこうカオスで、母はいつも忙しく、父は毎晩飲み歩き。 土日はパチンコか競馬。 父が運動会なんて見にくることはありませんでした。 まるで「父不在型の昭和家庭」の見本のようでした。 いつだかのお弁当が前日のカレーなんてこともありました。(笑) マジで恥ずかしい・・。 4年生になるとスイミングスクールに通わせてもらいました。もともと弟だけが行く予定だったのに、水好きの私が泣いてお願いして一緒に通うことになりました。体が小さかったけど、水泳が大好きだったので意外と進級が早く、選手育成コースへの移行話まで出ました。でも母が全部断って、6年生の夏にちょっと「そんな話あったよ」と初めて知りました。選手コースは親の協力がないと難しく、我が家は共働きだったので、子どもながらに難しいと考え、お断りしましたが、今思えば、あのとき挑戦してもよかったかな…なんて後悔してるところもあります。 他にもエレクトーンと書道も習ってたんですが、エレクトーンは完全に黒歴史。6年間通ったのに、ほとんど弾けずに終了しました。 私は手芸にどハマりしていて、フェルトマスコットをせっせと作ってしまいました。 が、母は全然褒めてくれず、「そんなことばかりして!針の片付けちゃんとしなさい!」と怒られるばかりでした。 褒められたい気持ちと、怒られる恐怖の狭間でソワソワしながら作るから、結局未完成の作品が増えていきました。 高学年になってミシンを教わったときは嬉しかったです。勝手に母のミシンを使って壊して怒られる出来事もありましたが、布バックなど自分で作るのがとても楽しかったです。 5年生の冬には、母が勝手に市が企画したスキー教室に勝手に申し込んでいました。友達もいないし、長時間バス移動で乗り物酔いがひどく、とても不安な気持ちで参加しました。宿からスキー場までも遠くスキー板を担いでの移動もしんどかったです。でも、終わる頃には同部屋の子たちと仲良くなって、翌年も参加の約束をしました。2年続けて参加して基本を学んだおかげで、その後もスキーが滑れるようになりました。 父方祖母が家を出て近くのアパートに引っ越しをしました。母との不仲が原因なのは子どもながらにも気づいてました。また、父が母に手をあげ、学校を休まされて病院に付き合わされた時に「離婚したらいいのに」と私が言いましたが「女がひとりで子どもなんて養えないでしょ!」と返されました。確かにそうかもって思った反面、優しい人と絶対結婚するんだと思いました。 よその友達の家に行くと、2階建てでお母さんが家にいておやつが出てくるのが羨ましかったなぁ。 小学校時代は忘れ物も多くて、宿題なんて基本やらないタイプ(笑)。 ちゃんとしてるように見られてましたが、中身は全然ダメダメちゃんでした。 6年生の時「ものもらい」ができた時、祖母からお金を借りてひとりで病院に行きました。が「なんでひとりで来た!」と先生に叱られました。膿を出す簡単な手術をしないといけなかったので、親がいないとダメだったんです。母はフルタイムで働いていたので、病院にくるまで時間がかかりました。母に来てもらうまでは心細くて泣きそうでした。 6年生の夏に市の水泳大会で100mクロールに出場しました。同じスクールに通う別の学校のお友達と勝負することに。いい勝負をしてたのに、最後に私が諦めちゃって4位。友達は3位でした。ちょっとしたタッチの差でメダルを逃してすごく後悔しました。 家族で出かけるって時は、だいたい父が不機嫌でした。 母も不機嫌になり、そのうち私と弟の口喧嘩が始まるという負の連鎖。正直、あまりいい思い出がありませんね。 そんな我が家が、私が6年生の時にビンボー家庭が沖縄旅行へ。 ウキウキで行ったらボロ旅館でした。 1日目は海に行けましたが、2日目は台風直撃で缶詰め状態。 最終日は父の知っている家族と海辺でBBQのはずが、海風が強すぎて肉どころじゃなかったです。 でも、これも「ネタになる思い出」なんですね。 そういえば、3年生のときに「しんやくん」という男の子が隣の席になりました。彼はとても頭がよくて、よく勉強を教えてもらいました。 優しい彼にくっついていたら「あまねとしんやはなんとかやってる」って早熟男子にからかわれ、そのうち学年中や先生からもからかわれるようになり、とっても嫌でした。それ以来、男子とほとんどしゃべれなくなりました。 ちなみに、初恋は5年生の時。「やすゆきくん」というスポーツ万能で背の高い男の子でした。自分が身長が低いのがコンプレックスだったので、背の高い子がタイプです。 5年生の時の母の日の話は一番最悪の出来事。 母が新聞1面に載ってる資生堂の2万ぐらいする香水の広告を私のところに持ってきました。 「これが欲しいから、お父さんからお金貰って、これを買って、母の日のプレゼントにして」と言われました。中小企業の薄給で週末ギャンブルしない男がそんな金出すわけないし、自分はもちろんそんなお金はないし、どうしたらいいんだろう・・と困りましたが、父に母の日のプレゼントをしたいからおこづかいくださいと言ってもらえたのが2000円。最初は1000円だけで、「足りないんだけど・・」と言って渋々出してきたのが1000円。2000円じゃかえるわけもなく、それでも何か用意しようと思い、近くのスーパーの化粧品コーナー。そこで小さな小さな香水もどきを購入し、母に渡すと 「こんなのいらないんだよ!!!」と投げつけられ、めちゃくちゃ怒られました。 それ以来、私のカレンダーには「母の日」はありません。マジです!(笑) こうやって書いてみると、いろいろあるのね・・、私って。 この後、「中学~高校卒業編」「短大入学~引きこもり・フリーター編」「社会人~結婚・出産編」「子育て~パート・現在編」 に続く予定です。(できるかしら・・(;'∀')) あまり期待せずにお楽しみに( *´艸`)

  • 私の生い立ち3 2025年3月 2025年3月

    ・短大入学~引きこもり・フリーター編 2025年3月 2025年3月

    なぜか突然、短大入学~引きこもり・フリーター編 中学・高校がある意味暗黒すぎて出てこない・・(;'∀') ので、先にこちらを書くことにしました。 短大に入学したのは、正直私の本意ではありませんでした。 本当は服飾系の専門学校に行きたかったのです。布や糸を手にとり、思い描いたデザインをカタチにするーーそんな世界に身を置きたかった。けれど、当時の私は自分の気持ちを素直に言えるタイプではありませんでしたので、そこに行きたい!とは言えませんでした。 母は手先の器用な私に「歯科技工士になれ!」って言うし、父は短大から銀行員になって欲しいと思っていたようです。しかし、どちらも心動かされる道ではありませんでした。 それにもうひとつ、自分の中にあった本音を言うとーー「得意なことに本気で挑戦して、自信を失うのがこわかった」という気持ちもありました。服や小物を作り、褒められることもありましが、それを学校で本格的に学んで「思ったほどできなかったらどうしよう」と考えると、怖くて踏み出せなかったのです。 世間的に女の子はとりあえず短大に行くみたいな風潮があったので、大して勉強もしていなかったのですが、とりあえず短大を受験し、合格したところに進学しました。 ところが、入学して間もなく壁にぶつかりました。学校に馴染めず、友達もできませんでした。教室にいても、周りがどんどん打ち解けていくのに、自分だけが置てけきぼりになっているような感覚。教科書を広げても、内容が入ってこない。次第に学校に行くのが億劫になり、半年で家に引きこもり、学校には行かなくなりました。 ただ、引きこもりと言っても完全に家から出ないわけではありません。共働きの両親は私がちゃんと学校に行っていると思い込んでいました。平日の昼間は家に閉じこもり、親の目をごまかしながら過ごし、土日はバイトに出かけるという・・。だから、家族は私の異変に気づきませんでした。 短大はもちろん単位が足りずに退学になりました。ビンボーだからそんなことして親に迷惑をかけてはいけなかった、申し訳なかったと今では思います。でも、やっぱりその時自分がしたいと思ったことをしないとダメだなぁと今では思っています。 学校を辞めたあと、私は正社員で働く勇気もなく、バイトを3つ掛け持ちしていました。 正社員になるとお仕事は1つしかできませんが、高校時代にほとんどバイト経験のなかった私にとって、いくつもお仕事経験ができることは貴重な体験でした。 土日は短大時代から続けていた某大型遊園地のキャスト、平日は駅前の本屋とコンビニと掛け持ちをしていました。どれも楽しかったいい思い出です。 某大型遊園地のキャストは高校時代からの憧れでした。高校時代に電車の中吊り広告を見て、高校を卒業したら絶対ここでバイトをするんだ!って思っていました。自宅から2時間近くかかりましたが、どーしてもやりたくてやりたくて。面接に行き、採用していただきました。遊園地内のレストランのホールキャストでした。仕事はそんなに難しくはなく、同年代の子たちばかりでしたので、和気あいあいとやっておりました。可愛い制服に身を包み、笑顔でお客様をお迎えするたびに「ここに立てて嬉しい!」と心が満たされるのを感じていました。 そこで初めて彼氏ができました。♡ 私は通勤に2時間近くかかるので、基本朝一出勤からの夕方まででしたが、彼はほとんど夜の出勤がでしたので私とはすれ違い状態でしたので、私はまったく彼の事を知らずにいました。なので、「よかったら今度何人かで飲みに行こう」と声をかけられたときは、「あなた、誰?」って感じでした。(笑) その後、私の出勤をチェックしていたのか、何度か仕事で会うたびに声を掛けられました。そして、ある時電話番号を渡されました。もちろん、「家電」です。(笑) 当時は携帯電話なんてなかったので。(あったかもしれないが・・)「夜、待機しているから電話ちょうだい」と言われ戸惑いましたが、なんだかんだ公衆電話にかけに行きました。男の人にそんなことされたことがなく、ほぼ初めてでしたので、電話をかけるときはドキドキしました(笑)。そして、それがきっかけで交際がなんとなく始まりました。 遊園地の仕事と並行して続けていたのが、駅前の本屋のバイトでした。ここでも楽しい思い出があります。本に囲まれた仕事はなかなか楽しかったです。一番の楽しみは、雑誌に載っていた試写会の情報をチェックすることでした。仕事の合間に応募先をチェックして、それをメモしては、家に帰ってからはがきに書いて応募していました。運がよく、かなりの確率で当たり、いろいろな映画を観ました。実は「紅の豚」は3度もタダで当たり、映画館に足を運びました。アルバイトの私と学生の彼とがなるべく安くデートするには、とっておきでした。 近所にできた某コンビニで働いていました。やることが多く、なかなか大変な部分もありましたが、じっとしているより忙しく動いている方が性にあってるところもあり、それなりに楽しかったです。 フリーターとしての罪悪感を感じながら、短大退学、資格なしの私は、正社員としてまともに働くのは難しいんじゃないかと思っていました。そうなると何か資格を取らなくてはと思い、絶対に無理だと思っていた『自動車教習所』に通う決意をしました。 自動車教習所は私にとって、かなりの試練でした。 自宅には車がなく、父がたまに会社の車を乗ってくることがあるので、それに乗せてもらうぐらいでしたので、車の構造がまったくわからず、まったく自信がありませんでした。 教習所の初日にゲームセンターにあるような、映像を見ながらハンドル操作をするものをやりましたが、ギアがなんなのかがわからず、ただガチャガチャ動かしているだけでした。(笑) こんな私が免許なんか取れるのか不安を感じずにはいられませんでした。 割と厳しめと評判の教習所でしたので、おじいちゃん先生に怒鳴られることもしばしばでした。 オーバーもしましたし、仮免も3回も受けました。(実際は、1度は寝坊で受けられませんでした(;'∀'))無駄にお金を取られてばかりで、足りなくなり原付免許しか持っていない母にお金を借りるお願いをしたら「そんなに大変なの?そんなにお金かかるものなの?」と散々言われ悲しくなりました。 ようやく仮免が取れ、路上に出るもビクビクでした。無駄に視力がいいので、信号が赤だとわかると100m以上先からブレーキをかけて怒鳴られ、狭い道のすれ違いでは左側をちゃんと見ておらず、あやうく教習車に傷をつけそうになり怒られていました。でも、ローンで通っていたので、免許が取れず借金だけが残る状況だけは避けねば!と必死でした。ようやく、教習所を卒業し、免許センターでの試験も一発合格し、晴れて免許を取得することができました!パチパチ 母が家用にと知り合いから5年落ちのスバル車の軽自動車を購入。 最初、助手席に父を乗せて走ったと思いますが、正直全然覚えてません。 しかし、だんだん慣れていき、毎日のように乗り回し、高校の親友を助手席に乗せたりして、車の運転が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。車の運転が大好きでした。 車購入を機に、原付しか持っていなかった40歳越えの母が「あまねが取れたなら、私も取れるでしょ!」と同じ教習所で挑戦!散々、実地で落とされまくったようで、金の無心をした時の私の気持ちがようやくわかった!と言いやがり、マジでこいつぶっ殺す!と思ったのは言うまでもありません。←この一文は見なかったことでお願いします。(*'▽') 某遊園地で一緒だった同期の仲間たちが就職を機に、アルバイトを辞めていきました。私は続けたかったのですが、周りには短大を辞めたことを言っていなかったので、私も自然と辞めることにしました。 地元の他の2つのアルバイトをしながら、正社員での就職を考えないとなぁ・・と、嫌々思っていました。 つづく

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 受賞

    佐藤貴美枝ニットソーイングクラブ全国コンクール 親子賞 2023年8月

  • 受賞

    ココナラ初出品 2025年5月

評価