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デザイナー飲食店経営を考える・その2

外食の産業化前夜。1970年の大阪万博にて九州の片田舎福岡のローカル企業であった「ロイヤル」が遠く600K離れた大阪豊中の千里という場所に華々しくデビューした年であります。 米国の近代化された飲食システム・・セントラルキッチンにおいて下ごしらえした食材を現場で組み立ててお客様に提供するといったバックアップシステムとアッセンブルラインの融合を果たした店舗運営は従来のコック主体の職人の仕事を一部分業することによって抜群の作業効率を生み出し料理提供時間の大幅短縮を実現しました。製造、流通、販売といった作業の分散そして店舗に於いての集中による精度アップを図ったのです。当時の年商額とほぼ同額の費用をセントラルキッチンに集中、現場には毎日物が届けられ、最終調理とサービスによってお客満足につなげていった。わずか9か月で大成功の12億(らしい)の売上を上げた会社は、いよいよチェーン化に乗り出すわけです。 一方関東の片田舎では食品スーパーを経営していた三兄弟が米国視察旅行から帰りこれからは「外食」の時代だと考え小さいながらセントラルキッチンの理論をもってレストラン経営に乗り出します。のちの「すかいらーく」のスタートです。 ロイヤルはアイスクリーム・ベーカリー・機内食・そしてフランス料理といった業態からスタートしチェーン化を目指し、大阪万博で自信をつけた。 一方すかいらーくは車社会到来による住居の郊外化によって地方の商圏ねらいとしてチェーン化を目指した。ことに関東において人口の多さは九州福岡の比ではなく市場規模としてはおそらく10倍は見込めたであろう。 消費者側からみても従来の・・・今までのレスト
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思い出はなし・・外食

外食という世界にどっぷりとつかっていた僕は日本社会の経済的発展、変化にどのように外食店舗が対応していったかを時代ごとに考えてみたいと思います。  生業としての外食・飲食業は歴史上かなり古い話になりますのでここでは割愛し 僕が幼いころからの体験を踏まえて昭和の中ごろの話からになります。高度成長時代の幕開けといっても過言ではないと思うのですが、敗戦により廃墟となった国土からの復活。  わずか19年にして開催されることになった「近代オリンピック第18回」に向けて各界の活性化が急激に進んでいきました。地方から多くの出稼ぎ労働者にとっての多忙な年月が始まっており、彼らの飲食事情をカバーする食堂がかなりの数存在していました。  僕は当時小さな田舎の小学生ではありましたが、人口1万人ちょっとの町にも食堂というものがありました。うどん、そば、かつ丼、定食等が主なメニューだったと記憶しています。  でも子供の僕はそんなところに行ってはいけないと思っていたのです。  大人の世界、酔っ払い、怪しい雰囲気などを感じたこともありました。  そうした子供たちは親に連れられて都会の「デパート」の食堂こそが当時の外食デビューだったのですかね。ささやかな家族のレジャーの一環としての「デパート」体験。屋上の遊園地あり、最上階には食堂ありなんでもそろっていた華やかな舞台。食券をにぎりしめ席が空くのを家族で待っていたもんです。和食あり洋食あり、うどん、そば、ラーメン、中華、パフェやアイスクリームまでそろった巨大なテーマ食堂という感じでした。  当然ながら提供するまでかなり時間がかかっていて、お客がぶつくさ言っていた声
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デザイナー外食産業で働くーシリーズ

 昨日のはなしの続き(朝食オペレーションの改善に関して)・・・米国本社スーパーバイザーの指導とはどんな内容だったか、というとまず彼らといっても2名でしたが厨房にて朝食営業を見せてあげるという事でスタンバイから作業開始・・・私たちは見てるだけ・・・開店準備 その前に前提条件というはなし「まず料理提供の遅れの原因は調理工程そのものの欠陥というのではなく全体の連携作業、つまりはお客様を迎える前の客席担当からの情報が大事という事、いいかお客がいきなり玄関に現れるわけでは無かろう、この店は外の状況が分かるように大きな窓というのがそもそもの設計コンセプトなんだ。ということはお客の行動が前もってわかるという事であって、同じくオープンキッチンという事も同様な意味があるという事を理解せよ」と・・・二番目に「メニューブックの構成をみろ・・朝食メニューのset写真が掲載されていて目立つように工夫されているのだ、米国本社では数十年の出数データが蓄積されていて最も多くのお客が注文したのがこのセットの写真なんだよ。全米に1000店近く存在している店のデータであって確率はすこぶる高いのである」と・・・・だからこの写真メニューを構成する内容を優先的に作ればいいのだ。という事なのだしかも来客100人に対しての各々の出数もあらかじめ予想しやすくなっているという事の説明をしてくれました。三番目にサービス担当のグリーティングで「このセットの組み合わせがが好まれていますアメリカ人は特にパンケーキが好きみたいです」というように指示がなされる。 ところで日本における外食市場とくに朝食市場は未成熟でお客自身も店でのふるまい方
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デザイナー飲食店を語るその3

産業化をひた走っていったファミリーレストラン業界が飽和状態になってきたころの現象。 競合他社の真似による売れる商品の開発らしき戦略が横行する。流行っている店に視察に行ってはその店の人気商品をまねることの繰り返しであっという間にどこの店に行ってもその商品は真似されている状況が生じまたたく間に新商品ではなくなる。差別化ではなく同質化現象が起きることで顧客にとって何の新鮮味もなくなっていくのです。 結果、立地と価格以外に差別化できる要素がなくなったのである。そのころ九州では低価格レストランとして「ジョイフル」という店が人気でありました。御三家といわれていたロイヤルホスト すかいらーく デニーズの価格の60%くらいだったが繁盛していました。 そこで各社の低価格化が始まったが、根本的にoperationの見直しが必要であることから「すかいらーく」は新業態として「ガスト」を世に出します。キッチンシステムにジェットオーブンを導入、グリルの作業短縮を図る。ドリンクバー、サラダバーを導入し、オーダーシステムも変更したうえで接客人数を減らす。経営体質の変化。従来の生産性5割アップを目指すが結果として収益が短期でみたら向上したという事で、またぞろ各社の同質化現象が生じたのである。「月刊食堂」も特集を組んで「ガスト」「ジョイフル」を追跡調査記事を書く。全国各地に広がった低価格路線のせいで、サービスの低下現象がおき人々のファミリーレストラン離れが起き業界全体の成長がとまる。おおよそガスト化して価格競争にまきこまれるか、逆にアップグレードしていくかの二者にわかれていく。当時の経営指標として人/時売上という
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デザイナー外食産業での事

本年は私の仕事のルーツといっていい「外食業の現場」というテーマで当時の日々の出来事、思っていたことや実行していたことを示していこうと思っています。前回はチェーンストアに関しての勉強と現実のはざまの葛藤という事でお話をさせていただきました。 今日はその続編・・・営業現場での事この当時の営業時間は朝8時から翌2時(深夜の) 8時から11時まではモーニングタイムでしたが、その時のメニューが今でいう「プリフィックス」という形でこのようなものでした・・・・1.冷たいお飲み物を選んでいただきます選択①オレンジジュース②グレープフルーツジュース③トマトジュースのいずれか2.卵料理の選択①ボイルドエッグ②サニーサイド(目玉焼きの事なんだけど)③スクランブルエッグの三つから選択、これがまたややこしくてそれぞれ詳しく言うとサニーサイド固め、柔らか、両面焼きの有無などスクランブルはレア・ミディアム、ウェルダン・・・などの選択含む 3.メイン ①トースト②フレンチトースト③パンケーキからの選択 4.サラダ ①フレンチドレッシング ②サウザンアイランドドレッシング から二者択一 5.温かい飲み物①コーヒー②紅茶③ミルクからの選択・・・これを一緒のテーブルのお客様がバラバラに注文するというシステムで・・もう混乱するのは目に見えていますがこれがアメリカ直輸入のやり方という事で、現場のスタッフのオペレーションはがたがた、提供時間30分以上1時間かかったこともありクレームのオンパレード、しかもランチタイム突入時間と相まってなにがなんやらわからないまま肉体的にも精神的にも疲れ切り、ピークのランチタイムを迎えるとい
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デザイナーと外食産業

私が就職した関西に本社があるとある流通企業からの配転によって、外食産業といわれるお店の店長として赴任した場所が、神奈川県の厚木というところ国道246号線ロードサイドにある100席程度の所謂「ファミリーレストラン」でした。 市場が拡大傾向にある時代で同業各社出店競争が激化している真っ最中の頃レストランでの食事が贅沢感あったころにリーズナブルでしゃれた店、マニュアル化されたサービスと均質の料理に多くのお客が週末におとずれ家族での華やかな食体験を満喫していました。 郊外の住宅に住む家族が週末にそろって外食を楽しむ・・というのが一つのレジャーとして定着しかかった時代ともいえるのです。ですから、出店しさえすれば繁盛する。といった公式に各社場所取り合戦の様相を呈していたのです。客単価がおおよそ600円~800円程度、客数が月間25,000~位として月商が1500万~2000万、100席程度の店としては当時かなりの繁盛店です。日祭日ともなると1,000人以上の来客があったという経営としては上出来な販売力で且つ売上対比の利益率は20%強という、益率からいえばスーパーの10倍以上、食品スーパー業態によっては益率1%ぐらいでしたから20倍ということになります。・・・こんなうまい商売を見過ごすわけにはいかん・・とばかり流通小売業の経営者はこぞって外食産業へと参入していったのです。一時期は全国に100社程度の外食会社が存在していました。今思い出してる店の多くはすでにありませんが・・・とにもかくにも産業化ステップの第一世代の話です。 従来の水商売感覚の経営から脱却しなければならないとばかり、各社大卒の社
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チェーンストアの職務分掌

 承前・・・市場規模云々といった話は、私たち現場の仕事をしている者たちにとってさしたる重要性を持っているわけではない、日々のオペレーションに必死に取り組んでいくだけであってあくまでも知識として取り入れておくべき存在であった。ともあれ、1980年代のチェーン展開企業に属していた我々現場マネージャーたちは日々をどのように生きていたのであろうか・・・業界全体の勉強会 チェーン志向企業の社員たちの研修会(外部のコンサルタント会社などの勉強会なるものがあり各社の若きマネジャーたちとの企業横断の交流などもあり意見交換等したものであった)など他社の情報を知ると皆同じようなものだったことを覚えています。米国発の理論によれば、売上は商品力と立地によってほぼ決まるのだという事であった、としても立地は昨年のまま、商品も同じということなのにその伸び方は店舗間格差があったのも事実であり、その業績によって賞与の差と組織上の昇格、降格という事態もそれに連動していたという事なのです。理屈通りだとすると各マネジャーの手腕と売上の関連性は薄いはずなのにやはり差がでてくるのは立地判定に問題があったという事なのか。 さて、私がマネジメントしていた神奈川の店舗は赴任した時点から3か月後より13か月連続売上前年130%という伸びをみせ、社内でも優良店舗となりその30%からさらに20%以上つまり開店当初の予定年商の50%アップを記録したという事で社内の表彰を受け金一封を毎月インセンティブとしていただくという快挙?を継続2年間という事になったのです(少し自慢)、ちなみにそのインセンティブは働いた従業員、パートアルバイトを含む
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