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「私の足は踏まれた」が変な日本語である理由

 日本語では、「先生にほめられた」「プレゼントをあげたら、喜ばれた」「雨に降られて、大変だった」など、「られる」を使う受身文が非常に頻繁に使われます。日本語教育でも早い段階で日本語の受身文が指導項目に入ってきます。しかし、なかなか適切に使うのが難しく、日本語学習者が使う受身文の中にはしばしば不自然に感じられる使い方が見られます。  次の例1は私の作例ですが、受身文を使ってその日の嫌な出来事を述べている文にしてはどこか不自然さを感じませんか。 (例1) 今日は散々な一日だったよ。電車で私の足は踏まれるし、後輩に私のデータは消されるし。 「私の足は」の「は」がおかしいんじゃないか、「が」に変えたら、自然になるのでは?と思われますでしょうか。「私の足が踏まれるし、後輩に私のデータが消されるし」少し良くなった気もしますが、やはりしっくりこないように思います。 (例2) 今日は散々な一日だったよ。(私は)電車で足を踏まれるし、後輩にデータを消されるし。  例2のように、「私の足」「私のデータ」の「私」を主語にして、「私は足を踏まれた」「私は後輩にデータを消された」とすると私に起こった散々な出来事を述べる文として自然に感じられます。では、この違いはどこから来るのでしょうか。
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