「正見」ありのままをありのままに見る、簡単なようで難しい事なのだろう
「正見」ありのままをありのままに見る、簡単なようで難しい事なのだろう「正見」は八正道の最初に出てくるテーマである。ありのままをありのままに見る。独断や偏見、そうして自分が作ったフィルターを全て排除して、他者も己も見る事、これを「できています」という事は簡単だが、本当にそれを出来ている人はそう多くないと思う。どうやったって人は自己弁護をしたいし、他者と比較をしたいという気持ちを抑える事は難しく、人は多面であるにも関わらず一面しか見ずに判断をしたり、自分の事すら多面であることを忘れているような、そんな人が多いように感じている。また、他者を過剰評価して、曲がったものをまっすぐ見ようとしたり、自分を過小評価して、良いものが何もないように見る事もまた、ありのままをありのままに見る、というテーマからズレているという事になる。曲がった木の枝は曲がっていて、まっすぐな幹はまっすぐでしかない。「こうあって欲しい」「こうならないで欲しい」という希望というフィルターなのにそこに沢山の飾りをつけたり、なにやら加工をして都合よく見えるように修正する。人間の生きていく術として身についたものかもしれない。しかし、その飾りや加工のない「そのもの」がどれだけ美しく尊いものかを、人は忘れたのかもしれない。そこにある人間関係からくる愛着や否定。「こうであって欲しい」という希望というフィルター。または「こうならないで欲しい」という希望というフィルター。起きた事象を目の当たりにした時に、そのフィルターを外して正しく見る事は、そう簡単ではないのだろう。しかし、飾りも加工も、希望というフィルターも、それが無いと分かった時に
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