こんにちは。本日は終戦の日でございます。先日、広島の平和記念式典についての話を書いたのも、長崎の原爆の日についての記事を書いたのも私です。長崎の記事については感情的になったあまり、収集のしようがないほどに乱れた文を書いてしまった自覚があります。
なので、今回は冷静に話をしますね。
前回、「身分問わず、全員が倫理の一線を理解することが平和への道筋である」と唱えました。そのために必要なこととして、いじめや虐待、その他もろもろの犯罪をなくすことが大事だとまとめたのですが、ただ、犯罪を無くす事は必要ないともここで明記しておきます。
どういうことかというと、罪を犯さずに一線を理解することはできないからです。私たちは小さな喧嘩やトラブルを経験して倫理の一線を理解していきます。その規模が大きくなってしまうこともあり得るため、罪を犯すこと自体を咎めるのは違うと思います。
大事なのは「心から更生できるシステムを整える」ことです。犯罪者を犯罪者として隔離するのも大事ですが、更生例がないのも違うのです。
「罪を犯したらすべて終わりだ。じゃあ、もう終わったようなものだし、もっと過激にやるか」となるのも違うと思いませんか? 広島の記事で「人間の苦難は去るべきだが忘れるべきではない」という内容を書きましたが、それは人生においても同じです。いじめや虐待などの不条理に対して、終わりは必要ですが「望ましい学習」をさせなければ同じことが起きます。
「望ましくない学習」の極端な例を出せば、親がケチだったから散財するようになってしまった人のような感じですね。いわゆる、反面教師です。それと同じで「平和が退屈だから戦争をする」「平等が苦しいから簒奪する」のような学習をされてはいけない。
長崎の記事で「国規模の話になると人命がおろそかになる」と書きました。だから、国の支配者になる人への教育が大事なのは言うまでもありません。ただ、その国の指導者の周りには、また「別の人」がいるはずで、その人たちへの教育が成功していなければ自動的に国の指導者は過激になっていくことでしょう。
人間は思いがけない人の影響を受けて成長することが良くあります。その、思いがけない人に自分がなる可能性もある。つまり、私たちから倫理の一線を守っていかないといけないのです。
結局のところ、戦争は教育に終着する問題です。終戦した日を覚えておくことは大事です。ただ、それ以上に大事なのが「終戦」し続けることを学ぶことです。
日本人は空気などを重んじて争いを避ける傾向にあります。ですが、それでも戦いをしてきた歴史があります。その歴史は何のためにあるのか、もう一度問い直す必要があるのです。
比較的コンパクトにまとまりましたが、私の言いたいことは以上です。
戦争が起きない世界に向けて、私たちは悩み続ける必要があります。