ピストルを懐に炭鉱に乗り込んだ女性実業家!広岡浅子に学ぶ「自ら動く」経営の覚悟ニャ!

ピストルを懐に炭鉱に乗り込んだ女性実業家!広岡浅子に学ぶ「自ら動く」経営の覚悟ニャ!

記事
マネー・副業
「女性が事業の先頭に立つなんて珍しい」

実際そう感じてしまう人は
まだまだ多いのではないでしょうか?

ですが、
今から100年以上前、明治の日本にも
自ら事業の最前線に立った女性がいました。 


その名は広岡浅子。 

炭鉱の経営危機に、
護身用のピストルを懐に
単身乗り込んだという逸話が残る人物です。

 のちにNHKの連続テレビ小説
「あさが来た」のモデルにもなりました。 


お疲れ様です!
自身の学びと備忘録を兼ねて
アウトプットするネコ!じゅんです(^^)/

銀行業、生命保険業、そして女子教育。 

今回は、
畑違いの複数の事業を同時に動かし
次々と結果を出していった彼女の生き方から
「自ら動く」
という姿勢を学んでいきましょう。

読書すら許されなかった時代に


浅子は1849年、
京都の豪商・三井家の四女として
生まれます。 

17歳で大坂の豪商
「加島屋」の広岡信五郎に嫁ぎますが
当時の商家では女性が経営に口を出す習慣は
ありませんでした。


それどころか、読書すら
「嫁のたしなみに反する」
として禁じられていたと
伝わっているんです。

それでも浅子は納得せず
隠れて本を読みながら、
算術や簿記を独学で身につけていきます。


教えてもらえないなら、自分で学べばいい。

この発想こそが、
後の事業家人生の土台になりました。


単身、炭鉱に乗り込む


1880年代、
加島屋は吉田千足とともに
「広炭商店」を設立し
石炭事業に参入します。


ところがデフレ不況の波を受け、
経営はみるみる悪化していきました。

このとき浅子は、
経営を人任せにしませんでした。

自ら単身で炭鉱に乗り込み、
治安の荒れた現場で
坑夫たちと寝食をともにしながら、
立て直しにあたったと言われています。


・治安の悪い現場に、
自らの意志で飛び込む覚悟

・帳簿の数字だけでなく、
現場の実情を自分の目で確かめる姿勢

・危機のときこそ、
誰かに任せず自分で判断する行動力


その後、
経営を立て直した潤野炭鉱は
1899年に官営八幡製鉄所へ
買収されるまでに成長しました。


「言うだけ」ではなく
「動く」経営者だったからこそ
危機を乗り越えられたのでしょう。


加島銀行、そして大同生命へ


炭鉱事業を立て直した浅子は
そこで満足しませんでした。

1888年には加島銀行を設立し、
金融という新しい分野に踏み出します。

さらに1902年には、
生命保険会社・大同生命の創業にも
参画しました。


これらの事業を軸に、
加島屋は大阪でも有数の財閥へと
発展していきます。


 一つの事業を軌道に乗せたら
そこで安住せず次の挑戦へ。


石炭事業で培った
「現場を見て動く」経験を、
まったく畑違いの金融業にも
活かしていったわけです。

複数の事業を並行して育てていく発想は
副業をコツコツ育てていく過程にも
重なるものがありますね。


もうひとつの挑戦、日本女子大学


浅子の挑戦は、
事業の世界だけにとどまりません。


1896年、
教育者・成瀬仁蔵との出会いをきっかけに
自身が読書を禁じられた経験から
女子高等教育の必要性を
強く感じるようになります。

実家である三井家から
目白台の土地の寄付を引き出し、
1901年の日本女子大学校設立に
尽力しました。


夫の死後、事業を娘婿に譲ってからは
女子教育と社会貢献に専念していきます。


1911年にキリスト教に受洗し
婦人運動や廃娼運動にも参加。

晩年は毎夏、
御殿場で若い女性を集めた勉強会を主宰し
後に社会で活躍する女性たちを育てました。


事業で得た力とつながりを、
次の世代を育てることに使ったんですね。

まとめ


☑️読書すら禁じられた環境でも
独学で知識を身につけた

☑️炭鉱の経営危機には自ら単身で乗り込み
現場から立て直した

☑️銀行業、生命保険業と、
畑違いの新しい事業にも次々と挑戦し続けた

☑️晩年は女子教育の道を切り拓き
次世代の育成に力を注いだ


広岡浅子の生き方が教えてくれるのは
環境のせいにせず、
自分の頭と足で動くことの強さです。

「女性だから」「経験がないから」
といった理由で一歩を踏み出せずにいるなら
まずは彼女の行動力を
思い出してみてください。


今日のあなたの小さな一歩も
大きな挑戦につながる
きっかけなのかもしれません。


今日も
最後まで読んでくれてありがニャい!
では!また (=^^=)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す