安岡正篤が語る「四柱推命」
諸君、今日は「運命」というものについて、少し話をしようと思う。世の中には四柱推命や算命学といった、いわゆる「占い」が数多く存在する。多くの人々はこれらを、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、単なる吉凶判断や気休めと考えているかもしれん。しかし、物事の本質は、そうした浅い見方の中にはない。
私が東洋の古典、特に『易経』などを深く学んできて感じるのは、これらが単なる迷信や偶然の産物ではないということだ。四柱推命もまた、古代の賢人たちが、天(宇宙の法則)、地(自然環境)、そして人(人間)の関わりを、長年の経験と観察に基づいて統計的に体系化した、いわば**「運命の統計学」「人間学」**なのである。
これを理解するには、まず**「宿命」と「運命」**を明確に区別せねばならない。
1. 「宿命」を知る学問としての四柱推命
**宿命(しゅくめい)**とは、文字通り「宿る命」。これは、我々が自ら選ぶことのできない、与えられた条件のことだ。いつ、どこで、誰の子として生まれるか。どのような時代に生を受けるか。そして、生年月日時によって定まる、その人の持って生まれた気質、才能、体質。これらが宿命だ。
四柱推命が明らかにしようとするのは、まさにこの「宿命」の部分だ。それは、いわば**「天から与えられた設計図」**であり、自分がどのような材料(木材か、石材か、鉄材か)でできているかを知るための手がかりなのだ。ある者は頑健な体質に生まれ、ある者は繊細な感受性を持つ。ある者は火のように情熱的で、ある者は水のように冷静沈着。これらは善し悪しではなく、単なる「性質」の違いに過ぎん。
この「宿命」を知ることを、儒学では**「知命(ちめい)」**と言う。『論語』にも「天命を知らざれば、以て君子たること無きなり」とある。まず己が何者であるかを知らなければ、君子としての生き方など確立できるはずがない。四柱推命は、この「知命」のための一つの有力な道具となりうるのだ。
2. 「運命」を切り拓くための指針
しかし、ここで終わってはならない。宿命を知って、「自分はこういう星の下に生まれたから仕方がない」と諦めてしまうのは、最も愚かなことだ。
そこで重要になるのが**「運命(うんめい)」**だ。これは「命を運ぶ」と書く。つまり、与えられた宿命という荷物を、自らの意志と努力でどう運んでいくか、ということだ。
たとえるなら、宿命が「与えられた車」だとしよう。ある人にはスポーツカーが、ある人にはトラックが与えられるかもしれん。しかし、その車をどう運転し、どこへ向かうかは、運転手である自分自身の**「徳」と「努力」**にかかっている。高級車を持っていても、運転が未熟で事故を起こせば意味がない。逆に、たとえ軽トラックであっても、優れた運転技術と明確な目的意識があれば、多くの荷を運び、社会の役に立つことができる。
これが**「立命(りつめい)」**の思想だ。中国の『陰隲録(いんしつろく)』にある袁了凡(えんりょうぼん)の話は、まさにこのことを示している。彼は、ある占い師に自分の宿命をすべて言い当てられ、人生を諦めていた。しかし、雲谷禅師の教えを受け、徳を積み、善行を重ねることで、占いで示された宿命を乗り越え、自ら素晴らしい運命を切り拓いていった。
結論として
私が諸君に言いたいのは、こういうことだ。
四柱推命とは、単なる未来予測の占いではない。それは、己の宿命を知り、その上でいかにして自らの運命を切り拓いていくかを考えるための、自己修養の学問なのだ。
自分の長所と短所、得意な時期と不得手な時期。そうしたバイオリズムや傾向を知ることで、進むべき時には勇気を持って進み、慎むべき時には静かに内省し、力を蓄えることができる。自分の弱点を知れば、それを補う努力をすることができる。
だから、四柱推命の結果に一喜一憂し、それに縛られてはならない。それをあくまで自己を知るための一つの参考資料、自己を修めるための「人間学」の教材として活用しなさい。そして、日々の実践、つまり徳を積み、学問に励み、誠実に仕事に取り組むことで、与えられた宿命を乗り越え、自らの手で輝かしい運命を創造していく。
それこそが、真に「生きる」ということであり、人間として生まれた我々の本分なのである。