神は「蒔かない処から刈り取り、集まってない処から取り去る」のか?

神は「蒔かない処から刈り取り、集まってない処から取り去る」のか?

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コラム
イエスのたとえ話の中に「タラントンのたとえ」というのがあります。
詳しくは、マタイによる福音書 第25章14~30節をお読みいただきたいのですが、この話の中で、1タラントン与えられたしもべが、主人に対して、このように言います、「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、集まってない処から取り去る恐ろしい方だと承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます」と、このように言うシーンに対して、主人である神は、「ほう、私がまかない所から刈り、集まってない処から取り去る恐ろしい存在だと知っているのか・・」と返すのですが、ここで私が疑問に思ったのが、神が、「いや、私はそんな存在じゃない!」と否定していないので、神は自分をそういう存在だと認めているのかな?と思っていたんですよね、でも、そうじゃなくてですね、ここは、しもべが、主人をそういう認識で見ていたのだな、ならば私もお前が思うような存在として振る舞おう・・ってことなんだと思うんですよ。なぜならば、神を愛しているならば、蒔かない処から刈り取り、集まってない処から取り去る、そんな理不尽で恐ろしい存在だと認識していること自体がおかしいですからね、つまり、「お前がそういう目で私を見ているんだな」というのを「ほう、私がまかない所から刈り、集まってない処から取り去る恐ろしい存在だと知っているというのか(そういう認識でいるのか)」っていうことなんです。
じゃあ、地震や台風や洪水などの自然災害、あるいは戦争や、流行り病、飢饉などの、老若男女だろうが健常者だろうが障がい者だろうが金持ちだろうが貧乏人だろうが、誰しもが平等に食らう災難に対しては、お前は、どう思うんだと聞かれましたら、私は、「善人が理不尽にひどい目にあうことはないし、仮にそうあったとしても、それが後々に、その人にとってかえって良い結果につながるんだ」と答えます。それは旧約聖書のヨブ記を読んでもわかることですからね、じゃあ、お前は、今回の熊本地震で被災した人々も、理不尽ではないとこう言うのか?!と言われそうですが、私を責めたてるのは、神を責め立てるのと同じことなので、やめたほうがいいです、心の中で思うだけでも、神にはすべて、その思いが筒抜けになってますからね。
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