第二部|神様との距離 第一話

第二部|神様との距離 第一話

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第二部|神様との距離
第一話|今日は公園? かさもりさん?

小学生の頃、私たちは自転車か足で行けるなら、そこはどこだって遊び場だったような気がする。どこが誰のなにでって言うよりも、そこで遊べるか?だけが判断基準だったのかもしれない。
私たちの放課後には、外で遊ぶならいくつかのお決まりの選択肢があった。

「今日は公園にする? かさもりさんにする?」

私たちにとっての公園というのは浦口の公園で、かさもりというのは、浦口の子にとっての遊べる場所としてのお稲荷さんのことだ。
友達と待ち合わせ場所を決めるとき、公園もかさもりさんも、私たちにとっては同じような場所だった。それは、自由に遊んでいい場所。

かさもりさんの境内で気にするべきは、お堂の縁の下の隙間で子育てをする猫くらいだった。いつもは誰もいないから、遊んでて怒られたりなんてしない。遊ぶにも、ゆっくり過ごすにはちょうどいい。そんな場所。

お祭りの日には、いつものかさもりさんが賑やかになった。違う場所みたいに人がたくさん集まって、何かが始まる。
ある年、友だちと出掛けて行って、火渡りをしたことがあった。
順番に並んで、私の番が回ってきて、火の上を歩いた。楽しかった。だって火の上なんて歩けるなんて、海の上を歩くみたいにできないことを出来てるみたいで、すっごく興奮した。不思議と全く熱くなかった。なんで熱くなかったのかなんてよく分からなかったけど、皆が火渡りするのは、出来るからなんだって、歩いてみて分かった。
珍しいことができて嬉しくて、家に帰ってから親に話した。なぜかお父さんが凄く嬉しそうだった。それが何のための儀式なのか、何を願って火を渡るのか。そんなことは考えもしなかったけど、お父さんは楽しそうに勇気を示す娘の姿に喜んでただけかもしれない。

最近になって、かさもりさんが法住院というお寺なんだってことを知った。
かさもり稲荷って呼んでたから、神社なんだと思っていた。火渡りは仏教の行事っぽいけど、蜃気楼のようなお祭りは、幻想的な楽しい景色に夢心地なことは日常を逸脱していてもいいのかもしれないと勝手にどこかで思っていたのかもしれない。

よく考えてみれば、私には神社とお寺の違いさえ、よく分かっていない。
それに、あの頃の私たちにとって、そんな区別は必要なかった。
公園には公園の楽しさがあって、かさもりさんにはかさもりさんの楽しさがあった。神様がいるとか、お寺さんだとかって気にもしてなかったから。

子どもの頃の私たちはそこに行って遊べさえすればよかった。そんな子供の遊び場を世間も神様たちも許してくれてたんだなって、考えもしないで、お釈迦様の手のひらの上を、この上ない心地よさで走り回ってたんだと思う。

そんな日常を罰当たりどころか、微笑みながら見守ってくれてたんだって、気付ける日がきて、懐かしく思い出してみる。

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