こんにちは。千代です。
龍に心を向けるとき、「名前を知りたい」と思うことがあるかもしれません。呼びかける言葉があれば、少し親しみを持てそうな気がする。その気持ちは、自然なものだと思います。
けれど、名前がわからないことを、足りないところとして急いで埋めなくてもよいのではないでしょうか。今日は、名付ける前の余白を残しながら、龍を思うことについて綴ります。
名前を知りたい気持ちの奥に
たとえば、旅先で見た龍の彫刻を思い出すとします。どんな名前なのだろう。何と呼べばよいのだろう。もう一度会いに行くなら、その名を覚えておきたい。そんなふうに、知りたい気持ちが生まれる場面を想像してみてください。
そのとき求めているのは、名前そのものだけではないかもしれません。印象に残ったものを忘れずにいたい、親しみを持って眺めたい、誰かに説明したい。名前があると、その入口を見つけやすく感じることもあります。
まずは、自分が何のために知りたいのかを、そっと確かめてみる。親しみを感じたいのなら、正式な呼び名を知らなくても、その彫刻の表情を思い出すところから始められます。
調べた名前と観えたことは別にする
彫刻や絵の名前を知りたいとき、現地の案内や作者の説明を読むことは、その作品を知るための手がかりになります。ただ、そこで知った名前と、龍観術で観えたことは、分けて扱いたいと思っています。
本で見つけた呼び名が、心に浮かんだ姿に似合うと感じても、それだけで同じ龍だと確かめられたわけではありません。似ているところを楽しむことと、何者なのかを言い切ることの間には、少し距離があります。
名前を尋ねられても、わからないなら、わからないと伝える。姿の印象があっても、名前まで受け取れたことにはしない。その線を残しておくことも、龍観術で言葉を扱ううえで大切にしたい姿勢です。
説明が一つ増えるたびに、安心できるとは限りません。今は名前のない印象として受け止めるほうが、自分にとって自然な場合もあります。
自分で付けた呼び名だとわかるように
手元の龍の絵を、親しみを込めて呼びたいこともあるでしょう。たとえば、青い絵なので「青い子」と呼んでみる。そうした私的な愛称は、作品を楽しむための言葉として持つことができます。
その場合は、「私がそう呼んでいる」とわかるようにしておくと、後から思い返したときにも混ざりにくくなります。自分で選んだ呼び名を、龍から教えられた本当の名前として語る必要はありません。
誰かに紹介するときも、「この絵を、私はこう呼んでいます」と添えるだけで、愛称と由来を分けて伝えられます。親しみのための言葉に、確かめていない物語を付け足さなくてもよいのです。
しばらくして呼び方が馴染まないと感じたら、変えても、呼ばなくなっても構いません。呼び名を決めたことで、新しい約束を背負う必要はないと思います。
呼ばずに眺める時間もある
名前を知らない花の色が、ふと心に残ることがあります。名前がわかると見方が広がる一方で、知らないまま眺めた時間にも、そのときだけの印象があります。
龍についても、まずは「この表情が好き」「この線が気になる」と受け止めるところに留まってよいのだと思います。呼び名を探しているうちに見えなくなっていた細部へ、目を戻せることもあるでしょう。
何も浮かばないなら、名前だけを無理に作らず、その日は何も浮かばなかったとしておけます。空いているところを残すことは、関心を手放すことと同じではありません。
知りたい気持ちは大切にしながら、まだ知らないところもそのままにする。龍を思う時間が、答えを揃えるための時間だけにならないように。今日は呼びかける言葉を探さず、心に残ったものを静かに眺めてみてもよいのではないでしょうか。