龍を観ていると、ご本人の前ではなく、後ろにいるような姿が伝わってくることがあります。
少し離れた背後から、同じ方向へ進んでいる。追い立てるわけでもなく、先へ回って道を示すわけでもない。ただ、歩幅を合わせるように、静かについてくる姿です。
「後ろにいるのは、守ってくれているということでしょうか」
そう尋ねられることがあります。
けれど私は、背後に観えたというだけで、すべてから守られる、正しい道を歩いている、必ず望む場所へ着けるとは言いません。
【前にいないことを、不在にしない】
私たちは、導く存在を前方に思い描きやすいものです。
先頭に立って道を開く。迷ったときに進む方向を示す。危険があれば、前もって知らせる。そうした姿はわかりやすく、安心にもつながります。
そのため、龍が後ろに観えると、「もう導いてもらえないのでは」と不安になる方もいます。
けれど、前にいないことと、いなくなったことは同じではありません。
少なくとも私が観ている景色の中では、その龍は背後にいます。同じ方を向き、同じ速さで進んでいるように観えることもあります。
なぜ後ろにいるのかまで伝わらなければ、理由は決めません。前方に姿がないことを、拒絶や見放された印へ変えないようにしています。
【背中を押しているとは限らない】
後ろに龍がいると聞くと、「背中を押してくれている」と受け取る方もいます。
その見方が心の支えになることはあると思います。けれど、私に観えた龍が実際に背中へ触れているとは限りません。強い風が吹いているわけでも、前へ進むよう促しているわけでもないことがあります。
ただ後ろを歩いている。
それだけの姿を、行動しなければならない合図にしてしまうと、休みたいときまで自分を急かすことになります。
龍が背後にいるから挑戦すべきだ、決断すべきだ、もう迷ってはいけない。私は、そのような言葉を足しません。
進むか立ち止まるかを決めるのは、ご本人です。龍の位置は、その選択を代わりに引き受けるものではありません。
【自分の目で前を見る】
背後の龍を観ていると、ご本人の前には広い空間が残っています。
目の前の道がはっきりしていることもあれば、霧の中へ続いていることもあります。分かれ道が観えることも、足元だけしか観えないこともあります。
龍が前にいなければ、進む方向は自分の目で確かめることになります。
これは、「一人で何とかしなければならない」という意味ではありません。誰かに相談してもよい。立ち止まって考えてもよい。来た道を少し戻ってもよいと思います。
ただ、龍の姿だけを答えにして、見えていない道を決めつけないことです。
今日できる一歩があるなら、それを自分で選ぶ。まだ選べないなら、選べない場所にいることを確かめる。その小さな確認は、特別な印がなくてもできます。
【振り返らなくても、観えていること】
背後の気配が気になると、何度も振り返りたくなることがあります。
まだいるだろうか。離れていないだろうか。何か伝えようとしていないだろうか。
けれど、確かめ続けるほど安心できるとは限りません。振り返るたびに姿が変わり、かえって不安になることもあります。
私は、一度観えた位置を大切にしながら、その後の変化が自然に伝わるのを待ちます。龍が前へ出れば、その動きをお伝えします。後ろに残れば、後ろにいるとお伝えします。見失ったなら、見失ったと書きます。
背後に観えた龍は、未来の安全を保証するものではありません。けれど、前にいないからといって、その姿を無かったことにする必要もありません。
前を歩くのは自分である。
後ろに観えるものがあっても、次の一歩を決めるのは自分である。
そのことは少し心細く、同時に静かな自由でもあります。
龍観術で私が大切にしたいのは、龍の位置から行動を命じることではなく、そのとき観えた配置と、そこからはわからないことを分けてお伝えすることです。