朝の林に、青灰色の龍がゆっくり歩いて観えた日がありました。地面には細い木の根が浮き、昨夜の雨が残した湿り気がありました。空は明るくなり始めていましたが、木々の間にはまだ薄い影が残っていました。
龍の前には、一本の古い枝が低く伸びていました。折れて道を塞いでいるのではありません。けれど、龍がいつもの姿勢のまま進めば、角や背が触れそうな高さでした。
龍は枝を押し上げず、横へ回り込むこともありませんでした。首をゆるやかに下げ、背を少し丸め、その枝の下を静かにくぐりました。枝を越えたあとも急いで頭を上げず、数歩進んでから、もとの姿勢へ戻っていきました。
そこに勝ち負けのようなものは観えませんでした。ただ、通るために必要な高さへ、自分の姿を合わせているように観えました。
頭を下げる姿を、弱さと決めない
姿勢を低くする姿を見ると、負けたことや、誰かに従わされたことを思い浮かべる場合があります。けれど、その朝の龍からは、押さえつけられている感じは観えませんでした。
龍は枝の手前で止まり、自分の間合いで身体を低くしています。怯えて縮こまったのでも、進むことを諦めたのでもありません。通れる形を選び、そのまま前へ進んでいました。
日常でも、声を張らずに聞く日や、自分の考えをすぐに出さない時間があります。そうした姿を「弱い」「何もできていない」と決めたくなることがありますが、外から見える高さだけでは、その人が何を選んでいるかまでは分かりません。
すべての枝を折る必要はありません
龍には、その枝を折る力があったのかもしれません。しかし、実際に折れるかどうかは観えませんでした。私に観えたのは、龍が枝を壊さずに通ったということだけです。
目の前にあるものを変えることが、いつも唯一の進み方とは限りません。小さく避ける、少し待つ、言葉を減らす。その場に合わせることで、自分の力を失うわけではない場合もあります。
もちろん、傷つけられる場所に耐え続ける必要はありません。安全が損なわれることや、無理を強いられることには、離れる判断や助けを求める行動が必要です。ここでお伝えしたいのは我慢の勧めではなく、壊さずに通る選択まで否定しなくてよい、ということです。
低い姿勢のまま急がない
印象に残ったのは、枝をくぐり終えた直後の龍でした。もう頭を上げられる場所に出ているのに、すぐには元の高さへ戻りませんでした。足元の根を確かめるように、低い姿勢のまま数歩進んでいました。
難しい場面を抜けたあと、すぐに明るく振る舞ったり、元気だった頃の自分へ戻ろうとしたりすることがあります。けれど、身体や心が姿勢を戻すまでには、少し時間が必要なこともあります。
低くなったままの時間があるからといって、ずっとそのままだとは観えません。反対に、いつ戻るのかを保証することもできません。その日の龍は、戻る時を急がず、自分の歩幅で確かめているように観えました。
もとの高さに戻ったとき
林が少し開けた場所で、龍はゆっくり首を上げました。大きく伸びをすることも、通ってきた枝を振り返ることもありません。枝の前にいたときと同じ静けさで、遠くの明るい場所を見ていました。
低い枝をくぐったことは、龍の大きさを変えていませんでした。角も背も、そのままです。ただ一時的に姿勢を変え、通り過ぎ、必要な場所で戻ったように観えました。
今日は、無理に高く見せなくてもよい日かもしれません。静かに譲ること、少し身をかがめること、返事を急がず聞くこと。それが自分で選んだ姿勢なら、弱さとは限りません。
龍が低い枝の下をくぐった日は、耐えれば報われると観えた日ではありませんでした。壊すことだけが強さではなく、自分を失わずに通れる形を選ぶ静かな力もあると感じた日でした。