神との対話① 第一章 P50

神との対話① 第一章 P50

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先日、神との対話を再読(5回目)をした際に「第一章」に深い真実が書かれていることに気づきました。
一番最初に一番深い真実が書かれているから『神との対話は難しい』とされるのはないかと。
裏を返せばこの第一章を読みこなせれば、神との対話は読みこなせるのです。
この詳細記事を読んで、難しさを払拭して神との対話の世界観を堪能して下さい。
その時、あなたの視座はひとつ上に上がることでしょう

P50
『さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたかった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ。
ここまでは、わかっただろうか?』
赤色が赤であることを明確にするには他の色の存在なければ、自分が赤であると体験できないのです。
同様に「素晴らしくない」体験をしなければ、その反対の「素晴らしさ」を体験できないのです。
「たぶんわかったと思います。続けてください。」(ニール)
『よろしい。「存在のすべて」が知っているのはただひとつ、「ほかには何もない」ということだけだった。外側に比較対照するものがなければ、いつまでも自らを知ることはできない。「存在のすべて」には、そんな比較対象の基準がなかった。比較対象の基準が何かあるとすれば、それは内部にしかない。これが「すべてであって/ない」こと、「わたしであり/わたしでない」ということだ。』
「存在のすべて」=神
「ほかにもなにもない」=それ以外は存在しない。すべて自分(神)なので自分の外側という概念はない。(自分の外側=他人)
すべて内側しかないということです。

比較して区別するものが外側にないということは、(自分という存在とは違う他人がいない)すべて自分の中だけの基準であるから
「存在するすべて」である。

一方で比較するものがないから、
存在するすべてを肯定するものがないから
「存在するすべてでない」
ということです。
(もっとも効率の悪いコミュニケーション方法の言葉の表現には限界がありますね。
これは後述で神も肯定しています。「言葉には限界がある」と)

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