40歳を目前にした頃、私は初めて知りました。
15年以上、高校教師として働いてきたキャリアが、学校や教育現場の外へ出た途端、「社会人未経験者」として扱われることを。
「教師は潰しが効かない」
そんな言葉を聞いたことはありましたが、噂で聞くのと、実際に目の当たりにするのとでは、破壊力がまるで違いました。
── 断崖から突き落とされるというか、高慢ちきの鼻を折れたというか。
それが今ではココナラをきっかけに、「教師」とはまったく無関係だった「映像制作」を仕事にしています。
金融、観光、IT、製造業、医療など、それまでの自分とは接点のなかったさまざまな業界の仕事に関わるようになりました。
北は函館のタクシー会社の観光PR映像から、南は鹿児島の歯科医院でのインタビュー撮影まで。教師時代には想像もしなかったほど、仕事の範囲は地域を越えて広がっていきました。
このきっかけをくれたのは、間違いなくココナラの存在です。
私が大学で学んでいたのは、教育学と理科(物理学)。そして大学卒業後は、そのまま高校教師になった人間です。
民間企業での経験はおろか、営業もしたことがない。売り上げを考えたこともなければ、映像業界やクリエイティブな業種で働いた経験すらありません。
そんな私が、「先生」という肩書きを外したとき、いったい自分には何が残るのか ── 当時の私は、その答えを持っていませんでした。
この記事では、そんな地方の高校教師だった私が、40歳を目前に「先生ではない自分」と向き合い、どのようにして人生の転換期を乗り越え、自分らしい働き方を実現していったのか。全部お伝えしたいと思います。
私の経験が、そのまま誰にでも当てはまるとは思っていませんが、「このままでいいのだろうか」「まったく別の人生は歩めるのだろうか」と立ち止まっている人に、私の経験が少しでもお役に立てば幸いです。
「明日死ぬかもしれない」と思った、人生の折り返し地点
コロナ、戦争、自然災害、事件、事故 ──。
少し大袈裟かもしれませんが、2020年ごろからの数年間は、人の生死がそれまで以上に身近に感じられる時期でした。
「明日死ぬかもしれない、と思って生きねば ──」
日々流れてくるニュースはもちろん、妻がコロナに罹患して看病したことをきっかけに、「このままあと20年、同じ働き方を続けられるのだろうか?」と強く考えるようになりました。
私の前職である「教師」という仕事は ── 多くの方がすでにご存知の通り ── 残業や働かせ放題といった状況ではありましたが、その反面、毎月決まった日にはお給料が入り、必ず年2回のボーナスもある。社会的な信用だって高い。
担任をしていた当時は、卒業式に(下手なりに)こういうのを残していたくらい、自分なりに生徒たちと向き合い、教師の仕事を頑張っていました。
もちろん、生徒の成長に関わることはやりがいにもつながる。このまま進めば、きっと大きく道を外すことはない。職場にいる50代、60代の先輩たちを見れば、自分の20年後もなんとなく想像ができました。
……が、少し怖くもありました。
もし45歳や50歳になって、突然、教師の人生が終わるとしたら? 教師しかやってこなかった自分に、なにか選択肢は残されているのだろうか。
コロナや戦争、事件や事故をきっかけに、教師しかしてこなかった自分の価値が、気になって仕方がありませんでした。
── このまま人生を送って、今際の瞬間に「ああ、いい人生だった」と、本当に思えるのだろうか。
そんな不安にも似た感情が一気に私を襲ってきます。
だからといって、いきなり教師を辞めたわけでは、もちろんありません。
そんな勇気はありませんでしたから。
そのとき私が思いついたのは、
「まずは学校の外に、自分の可能性をひとつ増やしてみよう」
それくらいの気持ちでした。
教師という、社会人未経験者
40歳を目前に控えた私は当時、高校3年生の「学年主任」をしていました。
卒業式の日。卒業生が退場した体育館で、「学校代表、最後の挨拶」として、卒業生の保護者に向けて、お話をする機会をいただくことになりました。
「今日で彼ら、彼女らは卒業しますが ──」
そんな言葉を話している私の心の中で、実は「私も、今日で卒業なんです」と呟いていました。
そうです。私は教師としての人生(キャリア)を、その年の学年主任の役職で終えると決意したのです。
時計の針を少し戻します。
学年主任になる直前の3月ごろに登録した転職エージェント2社。その担当者らに、熱く語っていました。
「40歳という節目を迎えるにあたって、キャリアの棚卸しをして、これからの人生の後半戦に向けて挑戦したくて ── 」
「先生」という肩書きを外したら、自分は何者なのか。何ができるのか。一緒に探して欲しい気持ちもありました。
しかし結果は冷徹で、記事冒頭の状況を迎えることになります。
15年以上、高校教師として働いてきた自分のキャリアは、学校や教育現場の外に出た途端、「社会人未経験者」でしかない。
正直、薄々わかっていたことですが、はっきり言われると流石にショックでした。
「その年齢で、マネジメント経験が無いとなると……」
要は、年収を維持した転職は難しい、ってことでした。
一度条件を下げて、キャリアを作り直したほうがいいのでは? そんな話もされました。
お若いお二人に ── しかも別々の会社なのに ── ほぼ同趣旨の内容で諌められるわけですから、きっとフォーマットに当てはめるとそれが最適解だったのだろうと思います。
教師として何年働いたか。
何人の生徒を見てきたか。
学年主任や進路指導を経験したか。
生徒や保護者たちと、どう合意形成をしてきたか。
そういった学校という組織の中では意味のあったキャリアも、民間企業の転職市場では、そのまま価値になるわけではありませんでした。
紹介されるのも、教育関係や未経験歓迎の営業などが中心で、思い描いていた転職活動の様子ではなく……。
学校では、15年以上の経験を持つ中堅。
学校の外に出れば、40歳目前の未経験。
これには正直、かなりこたえました。
それでも、学校の外で通用するものが何もないのなら、これから作ればいい。そう考えることにしました。
朝4時だけ、私は「先生」ではなかった
時間があるわけではありませんでした。
日中は学校です。
帰宅すれば家庭もあります。
そこで使うことにしたのが、朝でした。
家族がまだ眠っている朝4時。
一人で起きて、パソコンを開きました。
今風に言えば朝活ってやつですね。
家族を起こさないようにリビング(兼寝室)を離れ、当時、もっとも静かだった洗面室へ。朝活を始めたばかりの頃は、パソコンですらなく、iPadを使って朝活をひっそりとおこなっていました。振り返ってみると懐かしいです。
WordPressを触ってみる。
Webサイトを作ってみる。
記事を書いてみる。
やがて、DaVinci Resolve(動画編集ソフト)を触るようになり、YouTubeを見ながら動画編集を覚える。
当然、最初から何かができたわけではありません。知らないことばかりです。でも、誰にも知られないところで、もう一人の自分を少しずつ育てている。そんな感覚がありました。
しばらくすると私は、車から電車に通勤方法を変えて、そこで生まれた移動時間も、インプットとアウトプットの時間に換えていきました。
学校では「先生」と呼ばれているのに、朝の4時のパソコンの前では完全な初心者です。
朝は学ぶ側。
日中は教える側。
大げさに言えば、朝の1人の時間だけが、15年分のキャリアをいったんゼロにして、自分の未来を作っていく時間でした。でも、不思議と嫌ではありませんでした。
この朝の作業は、教師を辞めるその日まで続けました。
余談ですが、今でもまだ朝4時に起きて活動することは続いているので、このころ以降、すっかり朝型の人になりましたね。
ココナラで初めて「先生ではない私」に「値段」がついた
その過程で、私は「ココナラ」と出会うことになります。
「それ、誰に頼む?」というCMも印象に残っていますが、得意を売り買いできる、というコピーが、当時の私に強く刺さりました。
のちに記事で知ったのですが、当時のココナラは、調達した資金のほとんどをCMに投じ、認知度の向上に懸けていたそうです。CMが失敗していれば経営が危うくなっていたかもしれないというのですから、相当な挑戦だったのでしょう。
でも、その挑戦があったからこそ、私はココナラと出会い、人生の転換期を乗り越えることができました。誰かの挑戦が、巡り巡って別の誰かの人生を大きく変える。そう考えると、なんとも感慨深いものがあります。
ちなみに、私がココナラを使い始めて最初に売れたのは、今の本業である映像制作ではありませんでした。
ナレーションの読み上げです。
1,500文字ほどの文章を読み上げ、11個の音声ファイルに分けて納品。販売価格は1,000円。手数料を引いて、手元に残ったのは780円でした。
1ファイルデータあたり70円。
今なら、採算の合わない仕事だったと思います。
でも、その780円には、金額以上の意味がありました。
誰も私に頼む義務なんてありません。
知らない誰かが、私のサービスを見つけ、「この人に頼んでみよう」と選んでくれた。
たった780円でしたが、「教師じゃなくても、人の役に立てるかもしれない」。そんな感覚が、少しずつ現実味を帯びていきました。
その後、私は映像制作へ軸足を移していきます。
最初の動画編集の仕事は5,000円。
作業にはトータル10時間ほどかかり、時給にすれば500円ほどです。
これも(大変おこがましいですが)今の基準だと、副業じゃないと採算の合わない仕事だったと思います。
それでも、ココナラを通して依頼があるたびに制作し、改善し、また次の仕事へつなげていく。依頼を重ねるうちに、少しずつ「誰かに求めてもらえている」という実感も持てるようになりました。
でも、それ以上に大きかったのは、「自分の作る映像には、それなりの価値があるのかもしれない」と気付けたことでした。
自由になればすべてうまくいく ── なんてことはなかった
2023年3月。私は教師を辞めました。
独立後、最初の4月。売上はなんと約40万円ありました。
「なんとかなるかもしれない」正直、そう思いました。
ところが翌月。
5月の売上は、ほぼ0円。
6月も0円でした。
4月には月40万円ほどあった売上が、翌月から突然消えてしまったのです。
一方で税金や社会保険料は容赦なくやってきます。
生活防衛資金として置いておいた退職金がみるみる減っていく毎日。
なかなかのストレスです。
平日の昼間。
妻は仕事に、子どもは学校に。
自宅には私だけ。
ただ静かに、パソコンの前に座っている。
連絡は来ない。
仕事も来ない。
問い合わせも来ない。
「俺、調子に乗ってたのかな?」
「やっぱり、辞めるべきじゃなかったか?」
そんなことばかりが、頭の中によぎります。
自由になれば、すべてうまくいく ── なんて思い上がっていたつもりはなかったのですが、明らかに予想していた未来とは大きく異なります。
組織にいれば、自分が失敗しても給料は出ます。
困っても、誰かが助けてくれます。
でも、独立すれば、自分の判断ひとつで売上が消える。
ましてや自分には家族もいる。
自分のとった行動の責任の重さを、本当の意味で知りました。
それでも、またゼロから考えればいい
ただ、不思議なことに「もう何もできない」とは思いませんでした。
なぜ問い合わせが来ないのか。
何が悪かったのか。
どうすれば次の仕事につながるのか。
考えて、直して、また試す。
よく考えれば、教師をしながら朝早く起きて、新しいことを覚えていた頃から、やっていることは変わっていなかったように思います。
分からなければ学ぶ。
失敗したら修正する。
もちろん、大きく打って出ることはできないので、できることをできる範囲で小さく始める。
すると不思議なもので、7月以降、ココナラでも少しずつ案件が戻り始めました。そして1件ずつ、また積み上げていきました。
何か具体的に大きな要因があったわけではないと思いますが、禍福は糾える縄の如し、このことをきっかけに、目の前の好不調だけで自分の価値まで決めないことを学びました。
余談ですが、独立後、プラチナランクまで上がり、その後ブロンズまで落ちる ── という経験を、私は3度もしています。
ちなみに、3度目はこの執筆時点です(笑)。
もちろん、
「ココナラで一度も売上を落としていません」
「ずっとトップランナーとして走り続けています」
という人と比べてしまえば、落ち込むこともあります。
それでも、持たざる者として必要以上に悲観しなくなったのは、きっと、ココナラを通して経験ゼロの教師からクリエイターになれたことや、独立後に売上がほぼゼロになっても、そこからまた立て直せた経験があるからだと思います。
転職活動をしていた頃、私は「自分には市場価値がないのかもしれない」と思っていました。
でも今は、少し違います。
市場が変われば、評価されるものも変わる。
ある場所では評価されなくても、違う場所では誰かの役に立てることがある。
継続さえできれば、何度でもチャンスは訪れる。
780円から始まった仕事は、その後、想像もしなかったほど広がっていきました。
でも、本当に大きかったのは金額や実績ではありません。
肩書きがなくても、自分は誰かに必要としてもらえる。
ココナラでの活動を通して、そのことを実感できたこと。
それが、私にとって一番大きな変化だったのかもしれません。
40歳からでも、人生は変えられる
ココナラでは、その後3つのPRO認定をいただき、企業案件も増えました。
かつて見積書の作り方も知らなかった高校教師が、今では映像制作を仕事にしています。
でも、振り返ってみると、一番変わったのは収入でも肩書きでもなく、「自分はこの仕事しかできない」という思い込みがなくなったことかもしれません。
今でも、たまに教師だった頃を思い出します。
家族がまだ寝ている朝4時。一人でパソコンを開き、分からないことを検索しながら手を動かしていた時間。あの頃の私は、自分の人生が本当に変わるなんて確信していませんでした。ただ、「このままじゃ嫌だ」と思って、小さく動いただけです。
朝4時だけ、先生じゃなかった。
あの頃は、その時間だけでした。
今はもう、朝4時だけではありません。
その最初の一歩をつくってくれたココナラには、今も感謝しています。
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