数か月前に新しく始めた方の職場で、
ある日年上の男性から呼びかけられたんだが、その呼び方が
「先生」
だった。
どっから出てきたんすかそれwって笑って流していたが、
今になってよくよく考えてみると、人生において、
「神」とか「先生」とか呼ばれる事、めちゃくちゃあるんだよねw
昔の友達関係でも、息子の学校のパパの会でも、ゲーム繋がりの友達の輪でも…
教える立場だったからっていうケースもあったが、なんか知らん間にそういう呼ばれ方をしていた。
今になって、さすがになんだこれはと自分でも思うに至ったのだが、
やっと自覚出来た自分の使命の部分を考えたら、あながち不思議でもない。
自分が確信した、世界を素晴らしいものにする事に直接寄与できる使命を持ってこの世界に来ている自分の本質というものは、それを可能にするだけの光を内包しているのだと思う。
昨日書いた記事でも自分がやっている事を客観的に見て称賛していたが、思えば昔からその片鱗は見えていたのだ。
独特の視点に物事を突き詰める姿勢や順応性及び柔軟性や理解力など、こころ研究家として必要な要素の萌芽は幼少期から見られたように思う。
それが故に、本人は無自覚でも周囲がその異質さを感じ取って、上述の呼び方になったのかなぁと推測した。
そうなんだよ、それだけ自分は与えられてるんだよ。
この持てる力を、自分の使命に注がずしてなんとするかって話。
やりたくて、やれるなら、やらないはずがない。
ちなみに持論だけど、自分自身の使命に従って行動すれば、
どんな人でも常人からかけ離れた能力を発揮出来るものだと思っている。
わたくしはこういう使命だからこういう能力を頂いているけど、
それは個人個人で千差万別、誰も同じものがなく、比較する事自体意味がないのだ。
そしてそれらは全て、様々なものを手離して本質の状態にあれば、幸福の中にある。
皆が自身の本質と統合されて、その幸せの中で生きていけたら、それは比喩でもなんでもなく、天国そのものだ。
価値を評価される必要もなく、ただ自身から発せられる健全な欲求に従って楽しむことで、全ての人が愛を発信して、その愛を受け取ってまた満たされて…夢のような話に聞こえるかもしれないが、もう天国を体験している身から言えば、自分さえ許可を出せれば、いつでもそれは実現する。
たのしそー!!!やるぞ!