善意が損をする社会でいいのか——正しさを求めすぎる時代に失われるもの

善意が損をする社会でいいのか——正しさを求めすぎる時代に失われるもの

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コラム
私たちは日々の生活の中で、誰かの優しさや善意に支えられながら生きています。困っている人に手を差し伸べること。誰かのために時間を使うこと。自分にできる範囲で、少しでも社会を良くしようと行動すること。そうした小さな善意の積み重ねが、私たちの暮らしを支えているのだと思います。
しかし、最近の社会を見ていると、少し不思議に感じることがあります。
それは、善意で始めた行動に対して、いつの間にか周囲から多くの要求が生まれ、結果として行動した人が損をしてしまうような場面があるということです。
例えば、最近話題になった、お笑い芸人のやす子さんが運営する子ども食堂の出来事があります。
子どもたちに無償で食事を提供するという活動は、決して簡単なものではありません。食材を用意し、調理を行い、場所を確保し、衛生管理や安全面にも配慮する。そこには多くの時間と労力、そして費用が必要になります。
やす子さんは、子ども食堂の運営費用などを公開しています。その中で、活動に協力するボランティアスタッフへ交通費を支給していることについて、批判的な意見が寄せられたことも明らかにしました。
ボランティアなのだから、交通費を支払う必要はないという考え方です。
しかし、私はここに大きな違和感を覚えます。
そもそも、ボランティアとは報酬を目的とせず、自らの意思で社会や人のために活動することです。それは、活動に必要な交通費まで必ず自己負担にしなければならないという意味ではありません。
むしろ、協力してくれる人たちの負担を少しでも減らそうとすることは、活動を長く続けていくためにも大切な配慮ではないでしょうか。
そして、もう一つ考えさせられる出来事がありました。
子ども食堂では、自転車での来店を禁止しているにもかかわらず、近隣に自転車を停めてしまう人がいるとして、運営側が注意を呼びかけました。
近隣住民に迷惑をかけないためのルールです。
本来であれば、そのルールを守ることが利用する側に求められるはずです。しかし、こうした問題が起きると、今度は運営側が駐輪場を用意すればよいのではないか、という方向に議論が進むことも考えられます。
もちろん、運営方法について建設的な提案をすること自体は悪いことではありません。
ただ、ここで一度考えてみたいのです。
なぜ、善意で活動している人が、次から次へと新しい負担を引き受けなければならないのでしょうか。
子ども食堂は、利用者のあらゆる要望を満たすためのサービスではありません。限られた予算や人手の中で、子どもたちに食事を届けようとする活動です。
利用する側にも、守らなければならないルールがあります。自分にとって不便だからといって、すべてを運営側に解決してもらおうとすることには、少し疑問を感じます。
私は、ここに現代社会の価値観の難しさが表れているように思うのです。
誰かが良いことを始めると、最初は感謝や応援の声が集まります。しかし、活動が知られるようになるにつれて、今度はもっとこうするべきだ、あれも必要ではないか、なぜそこまで対応しないのかという声が生まれることがあります。
いつの間にか、善意で始まったはずの活動が、当然提供されるべきサービスのように扱われてしまう。
これは、とても不思議なことではないでしょうか。
もちろん、善意であれば何をしても許されるというわけではありません。安全面への配慮や、法律、社会的な責任を守ることは必要です。善意という言葉だけで、問題点への指摘をすべて否定することも適切ではないでしょう。
しかし、改善が必要な問題を指摘することと、相手に際限なく要求を重ねることは、まったく別の話だと思います。
特に考えたいのは、その活動が本来、必ずしも誰かに義務づけられているものではないということです。
やらなくてもよいことを、誰かのためにやっている。
そこに善意の本質があるのではないでしょうか。
もちろん、活動を始めた以上、責任が生じる場面はあります。それでも、活動する人に無制限の負担を求めてよい理由にはなりません。
むしろ、善意の活動ほど、継続するための余裕が必要なのだと思います。
時間にも限りがあります。お金にも限りがあります。そして、人の気持ちにも限界があります。
どれほど社会のために役立ちたいと思っている人でも、批判を受け続けたり、負担が増え続けたりすれば、いつか疲れてしまうことがあるでしょう。
そして、ここに最も大きな問題があります。
それは、善意そのものが失われてしまう可能性です。
最初は純粋な気持ちで始めた活動でも、続けるほど批判され、費用が増え、責任ばかりが重くなっていくとしたら、どうなるでしょうか。
もう少し活動を減らそうか。しばらく休もうか。そこまで求められるのなら、やめてしまおうか。
そう考える人が現れても、不思議ではありません。
そして、活動がなくなってしまったとき、困るのは誰なのでしょうか。
それまで支援を受けていた人たちです。
子ども食堂であれば、食事を楽しみにしていた子どもたちや、その家族に影響が生まれるかもしれません。
つまり、善意に対する過剰な要求は、行動している本人だけでなく、その善意を必要としている人たちの機会まで奪ってしまう可能性があるのです。
これは、子ども食堂に限った話ではありません。
地域の清掃活動、災害時の支援、ボランティア活動、身近な人への手助け。私たちの社会には、誰かの自主的な行動によって支えられているものが数多く存在しています。
ところが、そうした活動に対して、感謝するよりも先に足りない部分を探すようになってしまったら、社会はどうなるのでしょうか。
私は、善意を受け取る側にも、ある程度の想像力が必要なのではないかと思っています。
相手はどのような思いで活動しているのか。どれほどの時間や負担をかけているのか。そして、自分が求めていることは、本当に相手が負担しなければならないことなのか。
そうしたことを一度考えるだけでも、物事の見え方は変わってくるのではないでしょうか。
現代社会では、誰もが簡単に意見を発信できるようになりました。それ自体は、とても大切な変化だと思います。
以前であれば声を上げられなかった人が、自分の考えを伝えられるようになったことには、大きな意味があります。
しかし、意見を言えるということと、その意見が必ず正しいということは同じではありません。
自分では正義感から発言しているつもりでも、その言葉が相手の善意を傷つけてしまうことがあります。
より良い活動にしてほしいという思いが、いつの間にか相手を責める言葉に変わってしまうこともあるでしょう。
だからこそ、自分が何かを要求するときには、その言葉の先にどのような結果が生まれるのかを考える必要があるのだと思います。
もっとこうしてほしいと思うのであれば、自分には何ができるのかを考えてみることも大切です。
駐輪場が必要だと思うのであれば、実現できる方法を一緒に考える。運営費用が足りないのであれば、可能な範囲で支援する。何か改善点があるのであれば、相手の事情を理解したうえで提案する。
もちろん、誰もが金銭的な支援や協力をできるわけではありません。しかし、少なくとも相手に新たな負担を求めることが、どのような意味を持つのかを考えることはできるはずです。
私は、社会の豊かさとは、単に制度やサービスが充実していることだけではないと思っています。
誰かの小さな善意を尊重できること。そして、その善意が無理なく続いていくように、周囲が配慮できること。
そうした関係性もまた、豊かな社会を支える大切な要素なのではないでしょうか。
誰かが始めた小さな活動に、完璧さを求めすぎる必要はありません。
足りない部分があったとしても、まずはその人が行動したことに目を向けてみる。改善点があれば、責めるのではなく、一緒に考えてみる。
そうした姿勢があれば、善意は次の善意へとつながっていくのかもしれません。
誰かの善意を当然のものとして扱う社会では、やがて人は行動することをためらうようになるでしょう。
何かをすれば批判される。何かを始めれば責任を求められる。それなら、最初から何もしない方がよい。
そんな考え方が広がってしまうことこそ、私は最も残念なことだと思います。
やらなくてもよいことを、誰かのために行う。
それは、本来とても尊い行動です。
その行動に対して、まず必要なのは批判や要求ではなく、相手の立場を理解しようとする気持ちなのではないでしょうか。
善意を完璧なものにしようとして、その善意そのものを失わせてしまっては意味がありません。
私たちが本当に考えるべきなのは、誰かの善意にどこまで要求できるかということではなく、どうすればその善意を社会の中で大切に育てていけるかということなのだと思います。
善意が損をする社会ではなく、善意が次の善意を生み出す社会であってほしい。
そう願わずにはいられません。
良天星
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