【源頼朝】の宿命解説その2。

記事
コラム

頼朝の大運は?

一人の人生をちゃんと観ていくのはかなり労力がかかります。
さらっと即答できる人って本当にすごい力をお持ちですよね。
 →脱帽です。。。
一人一人の人生にマニュアルがあったら楽ですよね。

では、前回の続きから。
頼朝公が挙兵した時からの動きを宿命に添ってみていきましょう。
20221023-195203.jpg

頼朝が挙兵したのは治承4年とされています。
と、この年の動きに入る前に。

そもそも何故頼朝は武士の頭領として動くことになったのか?
ということにちょっとこじつけて考えてみたいと思います。

頼朝の宿命
頼朝宿命表.jpg

頼朝の大運を見てみますと、3歳が甲辰、13歳から癸卯となっております。この大運で甲から癸、あるいは、癸から甲に変わるタイミングは、人生の変化の時期(甲癸の境)とみて行きます。

これは人によって現れ方が違うのですが、今までの価値観と違う価値観になったり、性格が変わったり、事故や病気、事件などで人生の生き方が変わったりします。それ自体が良い運勢とか、悪い運勢だとかそういうことではありません。ただ何かを変化する時期が回ってくると考えてください(基本的には)。

ですので、このタイミングで変化しないことを固辞すると、返ってよろしくないので(無理やりにでも変えようとする何かが働きやすい)、そのまま流れに乗っていったり、直観的に閃いた生き方に切り替えたりする方が、「ああ、これでよかったな」と後々思い返せるようになります。

よく芸能人やスポーツ選手などは宿命解説の例題に上がりますが、覚せい剤で逮捕されたり、スキャンダルが発覚したり、大怪我をして、今の仕事を継続できなくなる。という事例がありますが、この甲癸の境の時期にそのような結果になることがよく見受けられます。逆に、感性の良い人は、このタイミングで他人が惜しんだとしても、スパッと今の環境を変えてしまう方もいます。
202108040000359-w1300_0.jpg

ちなみに、オリンピックで金メダルを獲得した、女子ボクシングの入江選手もこのパターンに当てはまります。世間はもっとボクシングを!と望んでいるのに、当の本人は、「就職します!」と躊躇なく会見で大学生活でボクシングを辞めることを公言されました。2021年前後は入江選手にとってまさにこのタイミングなのです。

さて、頼朝はと言いますと、追いかけられる身柄となるまでは、朝廷勤めの本物の貴族のような生活をしていたと記されています。官位も頂いて皇族、貴族の生活を間近で触れて、自分自身もそのような貴賓のある暮らしをしていたのではないでしょうか。丁度そのようなニュアンスのことを「鎌倉殿の13人」でも北条政子演じる小池栄子さんのセリフの中にありましたね。
20221023-200129.jpg

また、当時の価値観では、身分が高いことが即ちイケメンの条件でもあったようですので、地方豪族の娘である政子にとっては、心の底からほれ込む条件にはぴったりだったのかもしれません。

そんな頼朝が、永暦元年(庚辰年、大運癸卯)の時に賊軍となって逃げていたところを捕縛されます。まさに、朝廷に出入りしていた生活と全く違う環境の始まりといっても良いのではないでしょうか? 本当にこじつけかも知れませんが、このタイミングで、貴族のような生活を絶たれたことが、これからの頼朝の人生を決めたのかもしれませんね。

そしてこの【庚】の辰の年から始まった、源氏の嫡男としての監視下生活が続く中で、治承4年、【庚】の子の年に、以仁王からの令旨を受け取り(しかも受け取ったのが【庚】の辰月)、平家討伐の兵を挙げることを決意するわけです。おそらく、頼朝が京の都にずっといたならば(そうなるためには、父の義朝がクーデターを起こしてなかったらという条件が付きますが)、平家打倒を企てなかったかもしれません。父親たちがクーデターを起こし、賊軍となって追われる身となり、そしてなぜか殺されずに伊豆に流刑となったことが、頼朝の運命を大きく変えた…、いえ、運勢を大きく稼働させた。といえるでしょう。

と、こんなことは歴史を知っている人からみたら、常識のお話ですね。
そんな、当たり前のような物語が、宿命を読み解いて行く上での裏付けになればよいなと思っております。

時代に生かされた頼朝

算命学ではこういうことも考えられます。
俯瞰で源頼朝という人物を眺めた時に、中世日本にとって封建社会という仕組みが必要なタイミングであり、そのために必要な人物は誰か?と時代の運気が流れ、白羽の矢が立たのが頼朝だった。
というような見方です。
「時代に生かされている」という言葉を発する人物は、そういうゾーンにでも入ったような運勢の中で生きて行くのかもしれませんね。

始まった時に魂が宿る

また、始めた年月日には魂が宿ると算命学では考えております。つまり、【庚】で始めたことは、次に【庚】が巡ってきたときにその成果(あるいは信念)を試されることになります。ですので、頼朝にとっては、【庚】あるいは、【辰】、あるいは【辰巳天中殺】は大事なポイントになってくるとみて行くと面白いでしょう。

頼朝が33歳の時(数え年で解説してません)が治承4年(1180年)となります。
4月27日、以仁王からの令旨が頼朝のもとに届きます。
ドラマでは頼朝は勝てる戦ではないという理由で挙兵をためらっておりました。
20221023-200448.jpg

また、挙兵する理由も悩んでおりました。
後天運で観ていく前に、頼朝の宿命から見た性格を少し。。。

頼朝は生月天中殺となっています。生月中殺は「家系」との不自然な状態を示します。当時、以仁王と手を組んだ源頼政は、頼朝とは別格過ぎるほどの高いくらいに居た人物でした(頼朝とは血筋が違う源姓ですが)。頼朝目線から見た時に、非常に気に入らなかったのではないでしょうか。自分は源氏の嫡流という自負があったと思われる頼朝からすれば、同じ源の姓を受けた者で、かつ自分の父、義朝側につかず、清盛側について今の地位を築いた頼政が、自分よりも早く、打倒平家を打ち立て、以仁王(後白河法皇の子)と共に戦うことに手を貸す通りはないと判断したと思われます。
 →北方車騎星を持っている頼朝は、自分の正義感で決断する性格を持っています。

そして、生月中殺の頼朝ですから、自分ではない源氏が指揮する戦でその傘下に加わることは、頼朝の宿命上、とても承服しかねないことだったと思うのです。故に、頼朝は打倒平家を胸に秘めながらも、今この瞬間に挙兵することをしなかったといってもいいと思います。また、それが結果的によかったと個人的に解釈しています。令旨が届いたのは辰月(4月)の天中殺月。自ら戦を起こす、卯と辰は害に当たりますし、年運「庚子」とは、旺気刑でもあります。ここで流れに身を任せて、自ら挙兵する(叔父の源行家や頼政、以仁王の願いを受けて立ち上がるタイプではないと自分は思っているので)と決めると、結果的にうまく事が運ばなかったでしょう。

「鎌倉殿の13人」の世界では、後白河院からの命令でもあればみたいな運びとなり、密書が実は届いてますと話が進み、挙兵を決意するように描かれております。この史実があったかどうかは定かではありませんが頼朝の性格上、時の朝廷の最高権力者でもある後白河院からの命という大義名分は(北方、車騎星・日干、辛)、これ以上ない挙兵の理由となったのではないでしょうか。
20221023-194914.jpg

しかも日支が「丑」の頼朝にとって、この「庚子」の年運は、とても良い運勢が巡ってきています。
 →日支は誰かの紹介で動くと吉。後白河院から動いてと言われた受動的な動きなので吉。支合なので、スピード感は無くじっくりゆっくり動くそしてがっしりとしたものへと変化していきます。

あわせて、年運「庚子」と日支「辛丑」は干支双連といって、行動の一致度が高く、結びつきの強い相性となります。年運でやってくるわけですから、この年にやって来る者や、家族(この場合は北条家?)との結びつきが深まり、一蓮托生の運勢を形作っていきます。ですので、この年の挙兵はこの年に出会った者たち(大河ドラマ3話でいうところの、文覚や源行家→二人の今後の詳細は割愛)や、北条一派とは、鎌倉幕府を開いていくのに力となった者たちへと変貌して行きました。

10年ごとに人生のルートは変わる

33歳からの大運は「辛丑」。頼朝の日支と律音です。
この律音は、自分の意志が強まる時期となります。
ですので、大運律音で打倒平家。
そしてドラマ中では、政子が頼朝に発破をかけ、意思を固める!
頼朝にとって、新しい世づくりをしていく決意をするにはこれ以上ないタイミングだったと観ていいでしょう。
20221023-194828.jpg

もしかしたら、頼朝が千鶴丸が殺された辺りで感情に任せ、打倒平家へ打って出ていたらならば、鎌倉幕府は存在しなかったでしょうし、頼朝以降、およそ700年続く武士の時代はやってこなかったかもしれません。

以後700年続く武士の時代を決定づけた瞬間

治承4年という年は、頼朝にとって自分の人生を確定づけた年であったと言っても過言ではないと思います。
…ということは、この年の前に、頼朝の宿命を稼働させる何かがあったのではという推測も経ちます。これが時代の申し子と言われるような立場になるものの運勢なのかもしれませんね。

頼朝が33歳の時(数え年で解説してません)が治承4年(1180年)となります。
4月27日、以仁王からの令旨が頼朝のもとに届きます。
ドラマでは頼朝は勝てる戦ではないという理由で挙兵をためらっておりました。また、挙兵する理由も悩んでおりました。
後天運で観ていく前に、頼朝の宿命から見た性格を少し。。。

治承元年は、「丁酉」年。
頼朝の年干支には納音ですが(30歳になればだれでも納音になります)、日支は半会となっています。まず、年干支の納音は、親からの自立と現代は観て行くのが主なのですが(なので、30歳までに自立していないと、その後の人生はだいぶ大変なことになります)、頼朝は両親に先立たれてますのでそういう意味ではとっくに自立させられています。ですが、伊東祐親の監視下にあったので、良くとれば30歳まで保護されていたとみることもできます。八重姫のことが無ければ頼朝を殺そうとすることはなかったと思いますので(「鎌倉殿の13人」のストーリーと照らし合わせてます)。

つまり、年干支納音の時期までに、自立することが望ましかった頼朝にとって、八重姫との決別(即ち伊東家との決別)はプラスに働いたのではと推測できます。またその整理として必要だったのが、千鶴丸の殺害だったのでしょう。
20221011-005708.jpg

安元元年(1175年)に松川に沈められたとするならば、この年は「乙未」年です。頼朝にとって、日干支、天剋地冲の年となります。剋すエネルギーの天剋地冲ですから、自身がなにか違った方向で前のめりになっていた結果が現れたとも考えられるのではないでしょうか。つまり、積極的に宿命の生き方からずれていた可能性が考えられます。そのタイミングで天剋地冲が回ってくると自分の身の回りが一気に整理されることがありますので(日支は家庭、身内、今までのまとめ。その代表者が配偶者となります)、この年に、千鶴丸と八重姫との関係が壊れてしまったとみることはできます。ましてや、この二人の関係は、辰巳天中殺期間であった可能性が高いですので、天中殺で始まったことは全うできないという理論から見ても、その可能性は高くなります。

一人の尊い命を失ってしまった形ではありますが、頼朝の今後の人生にとっては、もしかしたらよかったのかもしれません。おかげで(?)北条政子との結婚をとても良いタイミングで迎えることができました。
日支半会で結ばれた二人はなかなか壊れることはありません。

北条政子の宿命が分からないので何とも言えませんが、頼朝にとって、この政子との関係は、望み続ける限りプラスに働き続けるはずです。忌神ですので、苦労はともないますが(笑)
そしてそれは歴史が証明しています。
なにより、ベストなタイミングで挙兵をすることができていますので、この千鶴丸との別れは、それからの頼朝の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう(大河ドラマのストーリーに思いっきり影響されてます…汗)

治承4年、1180年夏。
kamakuradonono13nin041.jpg

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4話では、くじ引きで8月17日が挙兵の日を決めたとなっておりましたが、史実、この日に頼朝は挙兵したようです。
この年は「庚子」年。頼朝にとって守護神が回ってくる年ですので、自身の生き様にあっていればとても良い年です。守護神がやってくる年は良くも悪くも目立つ時期とされておりますので、頼朝がいくら身を潜めて籠っていようとも、どうしたってやり玉に遭う年でもありそうです。ドラマに描かれたように、頼朝自身が「挙兵はとりやめじゃ!」と言い放ちその通りになったとしても、戦は始まったかもしれません。どうせ戦うなら襲われる側より攻める側に回った方がいいですよね(私観)。

最初の挙兵で平兼隆(山木兼隆)を討った後、石橋山の戦いで惨敗する頼朝ですが、ここで負けてよかったのです。子年で申月の挙兵ですので、どこかで刑を消化しなければなりません(子-卯の刑、巳-申の刑)。その後、支合となりますから(巳-申の支合、子-丑の支合)、先にトラブルを乗り越え、のちに自分の意図する方向へ流れを持っていけたのは運が良いと思います。
20221023-204810.jpg

この年の頼朝がまとっていた雰囲気は、大運「辛丑」年運「庚子」ですから、干支双連の様相となります。チーム頼朝が一蓮托生となり、結果を残して行く年です。石橋山で負けた頼朝軍は、土井実平の進言を受け、一度散り散りになり難を逃れます。その後、頼朝は安房の国へ逃れ、一大勢力となって約束の地、「鎌倉」へ入ります。鎌倉に入ったのは酉月。日支、月支と三合金局となる月です。
鎌倉殿の13人8話.jpg

違う価値観のツワモノ共が、戦う目的を同じくして一気に結果を生み出せるタイミングです。そして仕掛けるは戌月。年支の卯と支合の月です。このタイミングで始めたことはじっくりではありますが目的遂行のために前進できます。治承4年10月20日。富士川の戦いで勝利した頼朝は、打倒平家の地盤を盤石なものに仕上げていくのです。
この「庚子年」での出来事は、確実に頼朝の人生を決定づける1年となってますね。

頼朝はきっとこういう性格だった

次に、頼朝公の性格や人格の雰囲気について宿命から紐解いてみましょう。
石橋山の戦いで大敗し、そのまま歴史から消えてもおかしくなかった頼朝は何故大軍を率いて鎌倉に入ることができ、平家の追討軍まで追い払うことができたのか。運勢からではなく、人物の器で観てみます。

算命学では、宿命通りに生きていると大きな禍(事件・事故・戦争・天災など)に巻き込まれないと言われています。頼朝公が自分の宿命に反していたら、治承4年で死んでいてもおかしくなかったと思うのですが、生き残りました。ということは、合っていたとみなしてよいということになります。
→ちなみに、初年期で病気や災害などに巻き込まれる場合、自分の宿命より親の宿命に左右されることが多くあります。頼朝はこの時点で元服してますので自分の宿命を消化することが一番良い在り方となります。

せっかくなので大河ドラマになぞらえて、説明できそうなところを見ると、日干の「辛丑」月干「乙」年干「丁」、陽占の主星「石門星」晩年期「天印星」は顕著に説明できそうです。
今回は一番わかりやすい日干「辛丑」と日干か表れる「天印星」に絞って解説します。

まず「辛丑」。これだけで説明できるのですが、今回は分けて「辛」と「丑」。
辛は別で解説してあるので詳細は省きますが、自分自身が威厳のある人間であること。あるいはそういう立場にあることで輝いてきます。常に源氏の棟梁。かつ、他の嫡流候補といわれる人物と違う、京育ちという品格。どんなにひどい目に遭ってもこれだけは固辞している。それだけでよい運勢を引き寄せています。
鎌倉殿の13人5話.jpg


丑は、土性。土性を持っていると基本的に粘り強いがキーポイントです。粘り強いとは端的に言うと、ダメになりそうになるのだけど駄目にならない。つまり、死にそうなのになかなか死なない。こういう体験が必要なのが地支に土性がある人の宿命です。四つある土性のうち、頼朝公は丑を持っていますが、この丑は、最も粘り強い十二支になります。逆を言えば、最も逆境に立たされ「もうだめだ」という環境が待っているということになります。石橋山での敗戦以降はまさにその連続だったのではないでしょうか(頼朝は子供の頃からこういう人生が繰り返されてますね)。環境と一致すると運勢がプラスに稼働しますから、頼朝にとってこの治承4年の出来事すべてが思いっきりプラスに転じたのであろうと想像することは難しくないと思います。
鎌倉殿の13人6話.jpg

辛から丑を見ると「天印星」が出てきます。
天印星は赤子の時代です。赤ちゃんは自分であーだこーだ言いません。なので、ああしろこうしろと言うと運気が落ちます(ざっくり言うと)。また、赤ちゃんなので、頼んだもは頼んだとおりにならないことが多いのですが、自分の思った通りの結果にならなくても文句を言ってはなりません。運気が落ちます。ではどうしたらいいのか? 基本「無欲」です。そうすると運勢が一気に上がります。そして赤ちゃんなので、ニコニコしてればよいのです。ニコニコ無心に人に頼る。最高の力が発揮されます。

これを物差しにして大河ドラマを見ていると「あー、なるほどー」というシーンが結構描かれてますね。
そしてこの無邪気さや人たらしの雰囲気、性格が、多くの人を集め(乙・石門)大軍を率いて富士川の勝利までもっていく運気を呼び寄せたといってもいいでしょうね。

次に律音の解説です。
律音とは、同じ干支同士の組み合わせのことを言います。
頼朝さんの日干支は「辛丑」です。
律音とは、ざっくり言えば、もう一人の自分とか、自分らしい自分とか。ですので「しっかりする」「自分自身が強くなる」「意志を強く持つ」ことが自然の流れとなります。ですから、「生き方を定めなさい」というメッセージがその年にやって来ます。
鎌倉殿の13人9話02.jpg

律音=自分らしい生き方に定めなさい。
 →やりたいことをやる。やるべきことをやる。
そういうように思って頂ければ大体間違いないです。

何事もタイミングが大事

1181年(養和元年)、頼朝34歳の時の年干支は「辛丑」でした。
日干支と年干支が律音。そしてなんと、大運も「辛丑」で律音です。
33歳(1180年)から大運「辛丑」の律音。この年は以仁王から令旨を受け取り、打倒平家へと挙兵した一年でした。そして、翌年。平清盛がこの世を去ります。もう世の中大騒ぎです。
20221023-205024.jpg

頼朝公、いよいよ自分の時代到来!!!
と思いきや、そうはいかなかったのは歴史の妙。
一枚岩でなかった源氏は、この年もバタつきますね。
源義仲の台頭です。
FOSxskfXwAILJtp.jpg

養和元年、清盛が薨去したにもかかわらず、頼朝は平家を滅ぼしに京に上らず、まさかの和睦を申し入れます。諸説ありますが、これは義仲を警戒してとった戦略という説を自分はとりたいと思います。何が何でも平家を滅ぼし、鎌倉を中心に自分が政を執る。この意思は強かったのではないでしょうか。
律音の時期に決めたことは、強く意思をもって続けていくと運勢が上昇していきます。

頼朝公のこの決意は、大運「辛丑」の10年間。ずっと貫き通されます。その意志は死ぬまで続ければ死ぬまで運気は向上していきますので、相当強いものとなるはずです。

そして、この33歳からの大運でもう一つ、頼朝公の運勢を決定づけた意志があります。それが身内の粛清です。

1180年から1189年まで同じ源氏をどんどん粛清していったのは周知のとおり。源氏以外でも、挙兵から連れ添った坂東武者たちも粛清していきます。叔父の源義広・源義仲・源義高・源信義の嫡子、一条頼忠・源行家・源義経。貴族になろうとした清盛一門と違い、武家の棟梁として武士の時代を作ろうとした(守護地頭の配置)頼朝の生き様の一つになるのでしょうか。
20221023-205125.jpg


障害は全部粛正する。源頼朝の生き様が現れた、大運「律音」の10年。その決断をされた年運「律音」。そして、周りの人間から、源頼朝とはこういう人間像だ!と知らしめた、年運と大運の「外律音」。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、義時が八重姫に「鎌倉殿は恐ろしい方です」と伝えているシーンが描かれてました。
FO1BAkoWYAAXjI1.jpg

ということで、長くなってきました。
この続きはまた次回に。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す