こんにちは。千代です。
何か大きなことが叶ったわけではないけれど、ふと嬉しくなる瞬間があります。口にした果物がおいしかったり、好きな曲が流れてきたり。誰かに報告するほどではないと思ううちに、そのまま通り過ぎてしまうような喜びです。
龍に心を向ける時間も、いつも深刻な問いを抱えていなくてよいのだと思います。今日は、小さな喜びを大きな意味へ変えず、そのまま味わうことについて綴ります。
嬉しさに大きさの基準をつけない
たとえば、午後のひと休みに、みかんの皮をむく場面を思い浮かべてみてください。皮から香りが立ち、一房食べると、思っていたより甘かった。これは日常の楽しみを考えるための例ですが、その「おいしいな」という気持ちに、立派な理由はいらないように思います。
もっと大変なことを成し遂げた人もいるのに、これくらいで喜んでよいのだろうか。そんな比べ方をしなくても、その一房を味わったのは自分です。ほかの人が同じくらい嬉しいと思うかどうかとは、別にしておけます。
小さな喜びという呼び方も、価値が低いという意味ではありません。暮らしのひとこまに収まるくらいの、身近な喜び。大きく見せる必要も、小さいからと遠慮する必要もないのではないでしょうか。
ただ、何も嬉しいと思えない日まで、探し出そうとしなくて大丈夫です。喜びは毎日提出する宿題ではありません。気づいたときに、少しそこに留まってみる。そのくらいの付き合い方でもよいと思います。
よい出来事を未来の約束にしない
嬉しいことがあると、「この先もよいことが続くのかな」と期待が膨らむことがあります。楽しみに思う気持ちを消す必要はありませんが、今日の嬉しさだけで、これからの出来事までわかるわけではありません。
みかんがおいしかったことを、龍が特別な知らせをくれた証拠にしなくてもよい。何かが観えたわけではないなら、その部分は観えていないままにしておけます。龍観術で大切にしたい正直さは、心が明るくなったときにも変わらないものだと思います。
未来の約束にしてしまうと、次に思いどおりにならないことが起きたとき、あの嬉しさまで間違いだったように感じてしまうかもしれません。でも、明日がどんな日でも、今日おいしかった一房の味が取り消されるわけではありません。
先のことを言い切らずに、今は嬉しいと感じる。その受け取り方なら、この瞬間を何かの前触れとしてではなく、そのものとして大切にできるように思います。
分かち合うときは相手の感じ方も残す
隣に誰かがいたら、「これ、甘かったよ」と声をかけたくなることもあるでしょう。一緒に喜べたら楽しいけれど、相手が同じように感じるとは限りません。少し酸っぱいほうが好きな人も、今は食べたくない人もいます。
差し出した一房を受け取らなくても、こちらの喜びを否定されたと決めなくてよいのだと思います。「そうなんだね」と戻して、自分の分を味わうことができます。
龍を思う中で感じた穏やかさや楽しさを話すときにも、似た余白を残したいものです。私はこんなふうに感じた、と伝える。相手にも同じ体験や意味を求めない。喜びを分かち合うことが、感じ方をそろえるお願いにならないようにしたいですね。
誰にも話さず、ひとりで楽しむこともできます。写真や言葉として残さなかったからといって、その時間がなかったことになるわけではありません。
喜んだあとはいつもの暮らしへ
休憩が終われば、皮を片づけ、皿を洗う。そのあとは、まだ済んでいない用事に取りかかるかもしれません。嬉しかった気持ちが少し薄れても、つかまえておかなくてよいのだと思います。
同じみかんを明日食べて、今日ほどおいしく感じなかったとしても、何かを失ったと考える必要はありません。その日の気分や、食べる場面は同じではないからです。一度の喜びを、毎回再現する目標にしなくてもよいでしょう。
龍を思う暮らしに、笑みがこぼれるような普通の時間があってもよい。厳かな顔でいなければ、大切にできないわけではないと思います。
今日は、おいしいものをひとつ味わえた。その先の意味は決めず、そう受け取って一日へ戻る。大きな答えではなくても、自分が少し嬉しかったことを、自分でなかったことにしないでいたいですね。