妖怪がいなくなったと言われることがありますが、それは単純に「迷信が科学に負けた」という話ではないと思います。むしろ、世界の見え方や人間の認知の仕組みが変わったことで、妖怪という存在の立ち位置が変化したのだと感じます。
昔の人々にとって、夜の闇や深い森は「何があるか分からない空白地帯」でした。人間の脳は予測の仕組みで動いているため、その空白に意味を与えようとします。その結果として、恐怖や禁忌が「妖怪」という形で立ち上がっていたわけです。しかし現代では、街灯や地図、科学的な知識がその空白を埋め尽くし、未知の領域がほとんど残らなくなりました。ノイズがただのデータに変換されると、妖怪という解釈レイヤーは必要性を失っていきます。
さらに、現代はあらゆる現象にラベルが貼られます。昔なら怪異として語られていた体験も、医学や心理学の言葉で説明され、山の音も機械で解析されてしまいます。未知のまま発酵する前に、すぐに「既知の事象」に回収されてしまうのです。
メディアの変化も大きいです。妖怪は本来、曖昧で非線形な伝承のネットワークの中で生きていました。しかし近代以降、妖怪は図鑑やキャラクターとして固定化され、野生性を失いました。曖昧さの中にしか棲めない存在が、観測されすぎたことで消えていったとも言えます。
とはいえ、妖怪が完全に消えたわけではありません。現代にも、ネットの深淵で生まれる奇妙なミームや、アルゴリズムのバグがもたらす認知の歪み、都市の中で観測される異様な行動パターンなど、かつての怪異が別の形で現れているように見えます。妖怪は時代のアーキテクチャに合わせて姿を変えただけなのかもしれません。
そして、現代の想像力はどうしても「模倣」に寄りやすい構造になっています。膨大なデータベースがあり、検索すれば似たものがすぐに見つかるため、ゼロから世界を立ち上げる必要がありません。安全に管理されたスリルとして怪異を消費することも増え、想像力が家畜化されていくような感覚があります。新しいものが生まれても、すぐに言語化され、拡散され、消費されてしまうため、発酵する前に乾燥してしまうのです。
それでも、自分の内側から湧き上がるものは、たとえ何かに似ていても確かにオリジナルです。外側から借りてくるのではなく、自分というハードウェアが世界と擦れ合った時に生じる摩擦熱から立ち上がるものには、固有の必然性があります。結果が似ていても、そこに至る過程が違えば、それは別物です。
借り物の型で作ったものは、どこかで空虚感が残ります。自分の内側が動いていないことを、本人が一番よく知っているからです。逆に、湧き上がったものを形にした時には、他人に理解されなくても確かな手応えが残ります。価値があるとすれば、その過程にしか宿らないのだと思います。
現代のAIは、膨大な知識と推論エンジンによって高精度の答えを返しますが、それは人間の「根っこ」を照らし出す鏡のような役割を果たしているのかもしれません。かつて妖怪が人間の割り切れなさを映す存在だったように、現代のAIもまた、別の形でその影を受け継いでいるように感じます。