花びらは散っても・・・

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 新緑の季節を迎え、お寺の境内の木々も、とてもきれいな緑色となりました。冬になると雪が多く降ります。そして、木々の葉も枯れ落ちてしまいます。しかし、不思議なことに春になると必ず新しい葉が芽吹いてきます。最近、そんなことをよく考えるようになりました。
 というのも、私にお念仏の尊さを伝えてくれた母方の祖母が昨年秋、お浄土へ往生させていただいたからです。あれからもう半年が過ぎました。
 祖母は、母の実家のお寺の坊守として、96歳の長寿を全うしました。幼い頃から本当によく私をかわいがってくれた祖母でした。高校生の頃は、ちょうど通学路がお寺の近くで、帰り道にはしょっちゅう寄っていました。
 祖母は、私と話している時も、台所に立っている時でも、いつも「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」と、お念仏がこぼれていました。そして、「お念仏を大切にな・・・」「み教えをしっかりと聞いてゆくんだよ・・・」と私に話していました。
 「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)
 祖母は身をもって、この世の無常を私に示してくれました。それは同時に、仏さまとなった祖母が、これからもお浄土からこの私を、お念仏とともに、さとりの世界へと導いてくれることでもありました。
 「花びらは散っても、花は散らない」(金子大栄)
 たとえ木々の葉が枯れ落ちても、新たな葉が芽吹くように、仏法という大地に根を下ろした人は、その命亡き後も、残された有縁の者を導いてくださいます。
 親鸞聖人は、ご和讃に
  南無阿弥陀仏をとなふれば
  十方無量(じっぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は
  百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して
  よろこびまもりたまふなり
 と詠(うた)われました。
 今生(こんじょう)で祖母と会うことはもうありません。しかし、私が南無阿弥陀仏とお念仏する時、仏さまとなった祖母が寄り添ってくれているんだと感じます。
連続して途切れなく
 世間一般では、亡き方に対して「供養」という言葉をよく使います。これは、ご先祖のたましいをなぐさめることのように使われていますが、仏教本来の意味ではありません。
 供養とは「供(そな)え養(やしな)う」と書きます。「供給資養(くきゅうしよう)」の意味だそうです。仏さまに対して、お敬いのこころで、お香やお花、お灯明(とうみょう)、飲食物などをささげることをいいます。つまり、亡き方がなぐさめてほしい、物を供えてほしいと願われているのではなく、残された私たちが仏さまを敬い、仏さまとなられた亡き方を偲んで、こころからお供えさせていただくのが「供養」なのです。
 しかも、「供えている」側であるはずのこの私が、実はお供えすることを通して、仏さまをお敬いするこころを「養われ」ているのです。
 この私が、亡くなられた方をなぐさめるのではなく、亡き方の生前のご恩、これからのお導きに対して感謝し、お敬いのこころで供養させていただくのです。
 それだけではありません。ご本尊に礼拝(らいはい)し、み教えが説かれた聖典を拝読し、仏さまとなられた亡き方を偲び「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」とお敬いのこころでお讃(たた)えすることも、大切な「供養」なのです。
 親鸞聖人は、主著である『教行信証』の一番最後のところに、「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」
とお示しになりました。
 前に生まれたものは、後のものをお念仏の道へと導き、後から生まれたものは、前に生まれた方にみ教えを尋ねていき、連続して途切れないようにしましょう。なぜならば、数限りない迷いの人々が一人残らず救われるためです、と親鸞聖人はおっしゃっています。
 美しい緑の木々を眺めるたび、聖人のお言葉が心にしみる今日この頃です。
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