(292日目)血縁の強さ。

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コラム
個が尊重される世の中になって久しい。
個人の考え方がより優位に立ち、
「組織」「家族」という単位が希薄になった。

まず書いておくと、これは否定的な意味ではない。

個人の自我が尊重され
自分の生き方を設計できるのは
とても良い傾向だと思う。

右ならえ右ではなく、
自ら道を切り開くチャンスが
昔よりも広がったとも言える。

ただその分、個人が負う責任も増した。

個を尊重されるということは
権利を得たことに等しい。

権利を得たということは
義務も生じたと言うこと。

しかしながら、声高に権利だけを
主張する傾向にはややうんざりする。
義務を果たさず、責任を追わずして
何の権利なんだろうか?

権利だけを主張し
コミュニティを破壊し
思うがままに生きる。

それでは社会に生きる一員として
恥ずかしい限りとも思う。

個が尊重されるからこそ、
そこで生じる責任や義務を
教育の過程で学ばせること
これはとても重要だと思う。


さて、
今日はなぜこの話にしたのかと言うと
いくら個が尊重されようが、
切り離せないものってあるよな〜と思ったから。

特に親子関係でそれを感じる。

自分の親や子供と接していて
『なぜこんなこともできないのか?』
と憤りを感じることがままある。

それは行動であったり思考であったり
シーンによって違いはあれど。

ただ、その憤りを感じるのと
同時に頭をよぎることがある。

それは以下の3点。

①『異なる人間だから仕方ないこと』
と思える自分もいれば、

②『昔の自分はどうだったか?』
と過去を振り返る自分もいる。

さらに言えば、
③『今の自分と比べてどうか?』
と自分自身に問いかける自分もいる。

例えば子供が自分のことしか考えない行動をしたとして、
やはりイライラするし、正直ムカつく。
しかし、自分の学生時代などを思い返すと・・・
同じことをしていたような記憶が蘇る。

過去の自分を振り返ると
あれよあれよと思い出す。

と言うことは自分のことを棚に置いて
相手を非難するのも違うよなぁ、と思い直すわけで。


もう一つ例を挙げてみる。
それは、問いかけた質問と異なる答えが返ってくる場合だ。

『問われたことに対して答えるだけなのになぜできないの?』
と今の自分は感じてしまう。
『そんなに難しい話ししてないよね?』とも。

しかし、かつての自分はどうだったか?と考えると
思い当たる節がいくつも出てくる。
さらに言えば、普段はロジカルにモノを考えてるけど
近しい存在の相手には、同じことをしているんじゃないか?と。

なぜそのように思ったか?

それは自分自身が近しい相手と会話している時に
自分を同じような態度をされた記憶が蘇ったから。

その時のやりとりを思い出してみると、
・私自身が相手からの質問に対して答えにならない答えをした
・解釈が異なっていた
・相手の質問の真意を読み取れなかった。
ということだったと思う。

なぜそのような対応になったかと振り返ってみると、
→相手が言っている内容が理解できなかった。
→分からないことを質問するなりしなかった。
→自分なりに解釈して答えようと必死だった。

そう考えてみると、
その時の自分の思考や感情はそのまま、
私がいま憤りを感じてる相手が同じように感じているのでは?

そのように思い至った。

そうすると憤りではなく、
相手が理解できる説明を捕捉しなければならないと思うし、
自分の言葉に足りない部分があったのではないか?と自省できる。


親と子供はそれぞれ異なるもの。

だがしかし、
共通した遺伝子を持ち
長く生活を共にしてきた以上、

親子関係というのは想像以上に強固なものなのだろう。

ここでいう強固とは、
良い意味での繋がりもあれば、
そうでない場合も含まれる。

例え親子関係が悪かろうが縁を切ろうが、
自分の中に流れる根っこは同じもの。
切ろうとしても切り離せないものだと思う。

だからこそ、
相手に対して感じる嫌悪や負の感情さえも、
自分が誰かに対して行っている可能性を考えてみる。

それは意外と必要なプロセスなのかもしれない。


親も子供も自分を写す鏡だと思えば良い。

蛙の子は蛙であり
血は争えないである。

しかし、そのように感じることもまた
「気づき」であり「自覚」ということ。

この感覚があるからこそ
客観的に自分を見ることができるし、
人を責めるよりも
原因に焦点を当てる考えになれるんだと思う。
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