授業中によくある風景。
生徒「この問題が間違えてて、どこが間違っているかわからないんですけど~」
講師「どういうやり方で解いたの?」
生徒「普通にやりました」
講師 (絶句)
ここで使われている「普通」という言葉。
これは実は非常に怖い言葉である。
生徒はかなり無意識にこの言葉を発しているようで、
「普通って何?」と更に聞き返すと、そこで初めて具体的な説明を考えるのである。
つまり、とりあえずの返答として「普通」という言葉を使っている。
どういう切っ掛けでどういうルートでこの言葉が本人の中に浸透していくのかは定かではないのだが、
この言葉の毒され具合は決して低くない。
「ヤバい」という言葉と同じ様な『ヤバさ』を感じるのであるが、「ヤバい」ほど危険性が認識されてはいないことが余計に問題を深刻化させている。
普段「正確に物事を説明する」といった事や「自分の考えや意思を齟齬の無いように伝達する」ということは
あまり意識されることは無い。
大人・子供にかかわらず日常生活の中では、話し手・聞き手が双方に(多少の「ズレ」があるにしても)共通認識を持っているので、
「主語・述語」や「てにをは」に当たる部分を省略しても十分伝わってしまうのだ。
言葉の意味を拡大して使っているので、広がった言葉の意味の中に双方の認識が含まれてしまうためだ。
しかし、それを学習に中に持ち込んでしまうと非常なマイナスになってしまう。
「どのような基準(考え方)」で「何」を「どういう手順」でやったのかを意識できないと
定着は図れない。
「普通」という言葉でそれらすべてが誤魔化されてしまっているのである。
論理的思考力を養成するためには「普通」から脱却し、論理手順を明らかにすることが必要なのだ。
それは大人であっても同じことだ。
頭の片隅に置いておくべき言葉。
「『普通』って何?」