「これで進めていいですか?」
打ち合わせの最後、いつも同じ言葉で締めくくっていた時期がある。
マッタ創作所として、ロゴやWebサイト、動画、SNSの投稿まで、ジャンルを問わずデザインと映像の制作をしている。
正確に言うと、確認ではなかった。自分の意見を言う前に、相手の顔色を先に読んでいた。
デザインでも、映像の構成でも、SNSの投稿文でも同じだった。相手が良いと言えばそれでいい。相手が微妙な顔をすれば、すぐに別の案を出す。器用だと思っていた。実際は、ただ自分の意見を持っていなかっただけだった。
いつから、好みを差し出さなくなったのか
最初からそうだったわけではない。
独立したばかりの頃は、むしろ逆だった。自分の作りたいものを、そのまま出していた。何度か、それで案件が流れた。相手が求めていたのは、もっと落ち着いた提案だったのに、自分がかっこいいと思う方向に振り切ってしまった。
ある美容室のロゴ提案で、モノトーンで尖ったデザインを出したことがある。相手が求めていたのは、もっと柔らかく親しみやすい雰囲気だった。結局、その案件は他の制作者に決まった。
その反動で、今度は相手の言葉をそのまま形にすることを覚えた。「もう少し明るく」と言われれば明るくする。「もっとシンプルに」と言われればシンプルにする。修正の回数は減った。仕事は早く終わるようになった。
正直、そのやり方は楽だった。自分で決めなくていい。相手が正解を持っていて、自分はそれを形にするだけでいい。責任の一部を、いつも相手に預けていられた。
ただ、途中から小さな違和感が消えなくなった。
好みがないことに、誰も気づかなかった
厄介なのは、それでも一定の評価はもらえてしまうことだった。
言われた通りに直す。早い。丁寧。クレームも来ない。発注する側からすれば、扱いやすい制作者だったと思う。実際、当時のアンケートやフィードバックも、悪いものではなかった。
あるとき、フィードバックシートに「対応が早くて助かりました」と書かれているのを見たことがある。うれしいはずの言葉なのに、なぜか虚しさの方が大きかった。
けれど、次の案件につながることは少なかった。指名で戻ってくることも、あまりなかった。
理由は、あとになってわかった。相手の言葉をそのまま形にするだけなら、極端な話、誰に頼んでも同じものができる。マッタ創作所に頼む意味が、どこにもなかった。
技術や納期は評価されても、なぜこの人に頼むのか、という部分がすっぽり抜けていた。
聞かれて、初めて気づいた日
転機になったのは、ある打ち合わせでの一言だった。
「松田さんは、どう思いますか」
聞かれて、言葉に詰まった。相手の要望を整理することはできても、自分がどう感じているかを、その場で答えられなかった。
好みを消していたのではなく、好みを聞かれることに慣れていなかったのだと思う。ずっと、相手の答えを先回りすることだけを練習してきていた。自分の感覚を言葉にする筋肉が、単純に育っていなかった。
その日から、打ち合わせの中で意識して自分の言葉を挟むようにした。「個人的には、こちらの方が伝わると思います」「正直、この案は少し弱い気がしています」。最初は、余計なことを言っている気がして、声が小さくなった。
好みを言葉にする練習ー自分の意見の伝え方を覚えるまで
意見を言うようになって最初に苦労したのは、好き嫌いと、根拠のある意見の区別だった。
「なんとなくこっちが好き」は、感想であって、提案ではない。相手からすれば、判断材料にならない。
だから、意見を言う前に、理由を一つ添える練習をした。「こちらの色の方が、ターゲットの年齢層に合っている気がします」「この構成だと、後半で伝えたいことがぼやけると思います」。理由がある分だけ、意見は通りやすくなったし、通らなかったときも、納得しやすくなった。
不思議なもので、意見を言うようになってから、打ち合わせの空気が変わった。指示を待つ空気ではなく、一緒に考える空気になっていった。
意見を言って、初めて動いた案件
半年ほど前、ショート動画の構成について、クライアントの意向とは違う提案をしたことがある。相手は最初、迷っている様子だった。
それでも、なぜその構成の方が伝わるかを、具体的に説明した。「冒頭のインタビューを後半に回した方が、視聴者が最後まで見る可能性が高いと思います」。
結果的に、その提案で進めることになった。公開後、想定より長く見てもらえる動画になった。クライアントから、次の案件も同じように任せたいという連絡をもらった。
意見を言ったから通ったわけではない。理由を添えて、相手の判断材料にしたから、選んでもらえたのだと思う。
好みを出すことは、わがままとは違う
ここまで読んで、それはただの自己主張では、と思う人もいるかもしれない。
正直、最初はその境界がわからなかった。自分の好みを通すことと、相手のために意見を言うことは、似ているようで別のものだった。
違いは、理由を説明できるかどうかにあると、今は思っている。「こっちの方が好きだから」ではなく、「このターゲットに届けるなら、こちらの方が伝わる可能性が高いから」。同じ提案でも、その一言があるかどうかで、相手の受け取り方はまったく変わった。
わがままは、自分のために意見を通そうとする。プロの意見は、相手の成果のために差し出す。同じ強さの言葉でも、向いている方向が違う。
きれいにまとまった話のように書いてきたが、今もうまくいかないことは普通にある。
先日も、こちらが強く勧めた構成を、結局クライアントの意向で別の形に変えたことがあった。仕上がりを見て、正直、自分の案の方が良かったと思っている。それでも、決めるのは依頼した側だ。意見を言うことと、決定権を持つことは別だと、毎回どこかで思い知らされる。
ジャンルは違うが、Webサイトの構成でも似たようなことが何度かある。
意見が通らなかったとき、以前は少し引きずっていた。今は、伝えるところまでが自分の仕事で、そこから先は相手の判断だと、線を引けるようになった。これも、時間をかけて覚えたことのひとつだ。
それでも、意見のない制作者には戻れない
それでも、以前のように相手の言葉だけをなぞる作り方には、もう戻れない。
マッタ創作所として仕事を受けるとき、大切にしているのは愛と感謝と調和だと、いつも言っている。それは、相手に合わせ続けることだと誤解されそうになるが、実際は逆だと思っている。
意見を飲み込んで穏便に済ませることは、その場では優しさに見えるかもしれない。けれども、長い目で見れば、相手の可能性を狭めることにもなりかねない。
本当に相手のためを思うなら、都合の良い返事より、正直な意見を差し出す方が、結果的に誠実だ。好みを飲み込んで作った提案より、多少ぶつかってでも自分の意見を通した提案の方が、長く残っている実感もある。
好みを出すことは、わがままではない。自分の名前で仕事を受けている以上、そこに何かしらの視点を差し出すこと自体が、仕事の一部なのだと、今は思っている。