The Gazer【ファンタジー小説サンプル/ポートフォリオ】

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 北部の雪深い山脈の覇者、吼えざる魔獣、無音の狩人とは白狼の呼び名だ。 
 その獣は鋭い爪と牙で、物音ひとつ立てずに獲物を襲うという。しかし本来の気性は穏やかで、白狼は決して無駄な狩りをしない。食べるだけの命を奪い、敬意と共に骨や内臓を埋葬すると伝えられている。
 白狼の寿命は、およそ三十年。生まれてから八年程度で成熟し、厳しい冬の訪れと共に繁殖期を迎える。麓の森で根菜や木の実を集めるのは雄、永遠の白い山肌で角鹿や雪兎を狩るのは雌の役割だ。心を通わせた番同士は一つの穴倉で極寒の季節を過ごし、やがて雪の割れ目から草花の芽が出る頃になると、小さな命がひょっこりと巣から顔を覗かせる。
 白狼の雌は生涯で五回から八回の出産を経験するが、無事に成長する子供は半分にも満たない。母は暖期のあいだに子へ狩りを教え、父は寒期に向けて食料を集めるのが慣わしだ。白狼の子供は、三年ほどで独り立ちする。その後に待ち受けるのは、戦士としての孤独な日々だ。無慈悲な狩人として知られる白狼だが、山の動物たちを襲う外敵に対しては、雪原の守護者として立ち向かう。故に多くは、そうして戦いの中で命を散らしてしまうのだ。
 繁殖期を終え、最後の子が巣立つのを見届けた白狼は、番同士で山脈の向こう側へ旅立つという。厳しい山越えの先で、彼らは女神の御許へ迎えられるのだと語り継がれてきた。しかし近年は研究が進み、新たな生態が明らかになっている。実際は流氷に乗り、大陸の外側を迂回して南部へ渡っているという事実が判明した。
 南部の森林で神の牙として崇められる白い毛並みの老獪な獣たち――彼らは遠い北の地より最後の安寧を求めて訪れた、遥かなる旅人だったのである。
 ――フラン・ビィ『神話と魔獣』(アーヴェン書房、一七九一年)
【登場人物】
 ウルカ:亜麻色の髪の女性。怪物狩りの専門家。外見は二十代半ば。
 セリーヌ:村の娘。怪物に殺された被害者の妹。七歳。

 白狼:森で頻繁に目撃される魔獣。





01 怪物狩りの女

「白狼は無駄な狩りをしない」
 怪物狩りの女――ウルカの落ち着いた声が、村人たちに疑念と動揺を広めた。第一声で否定を紡いだ彼女は、ざわざわと不満そうに騒ぐ男たちを冷たく一瞥する。
「いちいち騒ぐな、鬱陶しい」
 微かな腐臭が立ち込める、夜の小屋。そこは女子どもを遠ざけるために、窓や戸が閉ざされている。暦の上では秋を迎えたが、ひどく蒸し暑い。
 閉塞感に息を詰まらせた村の男たちは、あからさまに苛立っていた。その視線の先に、ウルカがいる。
 軽く肩をすくめた彼女は、皮肉そうに唇を歪めた。
「私をいくら睨んでも、怪物の問題は解決しないぞ?」
 その態度が村人たちの反発心に火をつけ、誰かが「余所者が!」と罵る。
 すると軽く舌打ちしたウルカは、小屋の壁に握り拳を叩きつけた。木材の軋む音が響き、透明感のない粗悪品の窓硝子にぴしっとひびが入る。天井から舞い落ちる塵を億劫そうに払いながら、怪物狩りの女は集まった面々を順に睨み据えた。
「これだからクソみたいな田舎は嫌いだ」
 魔獣狩りを乞われて訪れたとはいえ、ウルカは余所から来た流れ者だ。いくら外敵の所見を述べても、それが彼らの見立てと違えば受け入れてはもらえない。閉鎖的な辺境の集落ではよくあることだ──嘆息まじりに怪物狩りの女は続ける。
「話を整理しよう。まずは一ヶ月前、十四歳の娘が森で殺された。その前後から、付近では白狼の姿が目撃されている。雪原の魔獣は当然、この辺りの温暖な森に棲息するはずがない。北から流れてきたと考えるのが自然だろう。時を同じくして、そこかしこで小鹿や野兎の死骸が見つかるようになった。そして二人目の被害者が、この子ども――」
 溶けかけの氷に囲われたテーブルに横たわる、二人目の犠牲者。大きな白い布で覆われているが、つんとした腐敗臭を隠しきれてはいない。
「三日前の昼間に家を空け、失踪の翌日に森で遺体となって発見された少女。亡骸の損傷具合はどれも似通っており、主に内臓が食い散らかされている」
 すると一人の村人が、ウルカの進行に待ったをかけ、「大酒呑みのマシュマーも一ヶ月前から行方知れずだ」と声をあげた。しかし彼女は首を振る。
「だが、そいつの死体は出ていない。事件との因果関係は不明だ」
 一つ意見を許すと、あとはもうキリがない。村人たちは口々に自分の言いたいことを口にしはじめ、小屋は喧騒に包まれた。
「マシュマーのことは、この際どうでもいい!」
「少女二人の死が、白狼の仕業じゃないならなんなんだ⁉︎」
「オェングスの神父さまから、白狼は魔獣の類だと伺ったことがある」
「だからあんたを呼んだんだ、つべこべ言わずにさっさと仕事をしてくれ!」 
「狩人も役に立たないから、わざわざ宗派の違う教会に高い仲介料を払ったんだぞ!」
「そうだ、怪物退治の専門家ならさっさとなんとかしてくれ!」
 得体の知れない死の影に怯える村人たちは、ここぞとばかりに不満を叫んだ。しかし十数人の男たちから一斉に怒号を受けても、ウルカは動じない。怪物狩りの女は、鋭い視線で彼らを一瞥した。そして威圧感に満ちた声で、場の熱気に冷や水を浴びせる。
「いま私は、その話をしているんだ。
 黙って聞けないなら、口数が減るまで犠牲者を出し続けるか?」
 カンテラの灯りが照らすなか、小屋はしんと静まりかえった。
 夜の森から木霊する、影梟の誘う声。それが凶事の前兆だとでもいうように、いちいち身をすくませる大人たちは滑稽でしかない。
 ふん、と嘲るように鼻を鳴らしながらも、ウルカは根気よく続ける。
「いまの時期、白狼は狩りに勤しんでいる。北の山脈から離れすぎてはいるが、森へ姿を見せても不思議じゃない。迷って南下してきた可能性もある。だが重ねて言うが、これは白狼の仕業じゃない」
 言うがまま、ウルカはテーブルへ手を伸ばした。そして村人の誰かが制止の声をあげるのにも構わず、布を剥ぎ取る――そこに横たわる、小さな遺体。
 随所が大きく食いちぎられ、無惨な姿だ。衣類から、かろうじて人間の女児だと判別できる。残暑が厳しい季節で、強くなった腐臭が鼻孔にまとわりついた。氷はすっかり水に変わり、亡骸を濡らしている。傷口には大量の蛆と蠅がたかっていた。
「二人目の犠牲者……名前は、カリーヌだったか?」
 ウルカは無表情のまま、魂を失った屍に視線を巡らせた。
「遺体を検めれば、証拠も示せる」
「待て、やめろ、やめるんじゃ!」
 正視には堪えぬ有様を見かねた村の老人が、よろけながら前へ出た。羽織り物で遺体を隠そうとする彼を、ウルカが「検分中だ」と制止する。しかし遮られた老人は、握った布地と共に声を震わせた。
「わしの孫だ、まだ九つの、優しく、可愛い、わしの孫だ! 余所からきた流れの売女にはわかるまい。このままでは、神の下へ逝くことも許されぬ。死してなお、辱めるなど……」
「私を売女呼ばわりするなら、今すぐにここを出て行ってやる。
 いくら金を積まれようが、お前たちのような恥知らずに腰を振ってやる気はない」
 言葉とは裏腹に、声は淡々としていた。
 侮辱されても、ウルカは顔色ひとつ変えない。化粧っ気のない白い肌に浮かぶそばかすを指でかき、嘆息する。それから小屋に集まった面々を改めて見回すが、彼らの表情に浮かぶのは恐怖と保身のみだ。
「便所に詰まったクソみたいな連中だ。自分たちが住む家の汚れくらい、自分たちでなんとかしようとは思わないのか?」
 この挑発めいた侮蔑にも、しかし反論の声はあがらない。
 得体の知れない脅威に怯える村人たちに、自らの道を切り開くために行動する勇気はなかった。そして田舎に根づく古い考え方で、男は女に指図されるのが気に食わない。
 ウルカは呆れたように肩をすくめた。
「ここへ来たのは無駄足だった。図体ばかりでかくなった赤ん坊のお守など、金貨を百枚積まれても御免だ」
 うなじで結んだ亜麻色の髪を揺らし、ウルカは踵を返した。怪物狩りの専門家を名乗りはしても、容姿は二十代の前半。特別に身の丈があるわけでもなく、女だからと舐められることは珍しくもない。鋼の胸当や籠手が、使い込まれた歴戦の武具だと判別できる村人がいれば、もっと話は円滑に進んだのだろうが。
 引き留める声がないのなら、助ける理由もない。
「私は行く。あとは、せいぜいお前らの神にでも祈れ」
 苛立たしげに小屋の戸を開いたウルカは、外に佇むひとりの少女に迎えられた。
 被害者の女児よりも少しだけ若い。遺体のかたわらで項垂れていた老人が「セリーヌ」と困惑の声をあげた。小屋の大人たちとは比べ物にならないほど、強い意志を瞳に宿した少女――その眼差しが、失望と諦観に凝り固まったウルカの心にかすかな波紋を広げる。
「お前は?」
「わたしはセリーヌ。死んだカリーヌの妹です。
 おじいちゃんたちがダメなら、わたしが貴女に依頼します。身売りでもなんでもして、お金は必ず稼ぎます。だから姉の仇を取ってください。どうか、お願いします!」
 姉の仇を──。
 そう口にしたあたりから、声は震えだしていた。セリーヌは目に涙を滲ませながらスカートの裾をぐっと握り締め、それでも怪物狩りの女を真摯に見上げ続ける。
「わたし、本気です!」
 ウルカの紺碧の瞳が、幼い少女の決意を見定める。
 不憫なほどに、強い目の光だ。
「まったく……」
 そして怪物狩りの女は、おもむろに手を伸ばした。無骨な指先が、セリーヌの頬を軽く撫でる。わずかな逡巡を挟み、ウルカは舌打ちまじりに皮肉を口にした。
「言っておくことが三つある。
 第一に、私は人買いにコネなどない。
 第二に、初対面の後払いを信じるほどお人好しじゃない。
 第三に、お前がそんな顔をすることはない」
 ウルカの剣呑な眼差しが、小屋の男たちをじろりと睨みまわした。
「そこにいる礼儀知らずの腑抜け連中が、少しでも良心と聞く耳を持っているのならな」
 すると幾人かの男たちが声を掛け合い、遺体の前で膝を落とす老人を下がらせた。余所者である怪物狩りの言葉は、相変わらず誰の心にも届かない。しかし集落の子どもであるセリーヌの健気な姿勢が、彼らを動かした。
 村人の一人が、ウルカの前へと歩み出る。
「すまない、わざわざ遠くから来てもらったのに、ひどい態度を取ってしまった。謝るよ。だが貴女のような専門家には日常的なことでも、我々からすれば未曾有の事態だ。みんな気が立っている、わかってほしい」
「他人に鬱憤をぶつけて解決するなら、罵られる当番でも決めて震えていればいい。私は仕事の請負人で、お前たちは依頼主だ、注文は好きにしろ。だが決めるのは私で、実行することは他の誰にも真似できない。それを忘れるな」
 目の前の男以外にも聞こえるように低い声を通したウルカが小屋に戻ると、続いてセリーヌも素早くあとに続き、勢いよく戸を閉めた。大人たちが「家に帰っていなさい」と咎めるが、しかし少女は耳を貸さない。
「依頼したのは、わたしだもの!」
 怪物狩り女は、外套にしがみつく幼子を感情のない眼差しで見下ろした。
「つらいものを見るぞ?」
「みんなが貴女を追い出したりしないように見張ります。終わるまでは帰りません」
 頑固な娘だ、とウルカは片方の眉を上げると、渋々ながらセリーヌの同席を認めた。しかし村の大人たちは「子どもに聞かせる話じゃない」と抗議する。 
 そんな意見は当然のように無視し、怪物狩りの女は腰の短剣を引き抜いた。 
「遺体を検める」
 遺体の傷口に刃をあてがったウルカは、慣れた手つきで検分を開始した。そこでようやく無残な姉の遺体に気づいたセリーヌが、短い悲鳴をあげる。しかし怪物狩りの専門家は気にも留めず、手も止めない。短剣で遺体を捌き、内臓の状態を確認していく。
「状況から推測するに、人外の異形が連続殺人の犯人であることに疑いはない。そして白狼でないのも明白だ。まず、白狼は狩った獲物に敬意を払う。栄養になる部分は最後まできれいに食べるし、残った骨や内臓は土に埋める習性がある。そもそも白狼は、めったに森で狩りをしない。他に、もっと見るべきところがある」
 淡々と続けながら、ウルカは遺体の傷口を開腹し続けた。
 口元を抑えたセリーヌが、嗚咽をかみ殺す。
 刃に押し上げられて屍の内部が露になると、白狼が口にしないはずの内臓までもが食い荒らされていた。外傷の歯形も乱雑で、雪原の魔獣とは一致しない。
「傷口の裂け目、歯形がばらばらだ。白狼の歯はきれいに生え揃っていて、こうも汚くはならない。下手人は歯並びが悪いようだ。それに一部、蛆も寄りつかない箇所がある」
 蛆や蠅が寄り付かない内臓の深い部分を刃先で抉ると、じゅわっと音をあげて鉄が溶けた。ウルカが「強力な酸だ」と呟き、短剣を引き抜く。鍛えられた金属を侵食したのは、体内に残された緑色の体液だ。
「これは恐らく、怪物の体液だな……」
 解剖で使用した短剣をテーブルに置き、ウルカは腰の鞄から小瓶を取り出した。中身は破邪の性質を宿す聖水だ。栓を抜き、聖別された水を傷口に振りかける――緑の液体は一瞬だけ赤紫に変色して、すぐに蒸発した。
「毒素の色だ」
 刹那、鼻の曲がるような刺激臭が室内に充満しはじめた。顔をしかめたウルカが、億劫そうに換気を促す。
「窓と戸を開けろ。決まりだ、下手人の正体は≪アウチュー≫。温暖な森に棲む、臆病な性格の怪物だ。狙う獲物は子供や小鹿、好物は内臓。唾液に含まれる毒は非常に強く、聖水に晒すと赤紫に蒸発する。噛み傷がまばらなのも、歯並びの悪い≪アウチュー≫の特徴だ。白狼の存在も気にはなるが、目標は定まった。だが、≪アウチュー≫はひどく警戒心が強い。奴を炙りだすには特殊な霊薬が必要だ。精製には、設備のある首都へ行く必要がある」
「げほげほ……ひどい臭いだ!」
「おえぇ、お、おい、窓だけじゃなくて扉も開けろって。いや、待ってくれ、首都って、ここから馬でも半月はかかるじゃないか、その間に村が襲われたらどうするんだ!」
「そ、そうだそうだ、だいたいその≪アウチュー≫とかいう化け物の仕業だったとしても、白狼が脅威であることにも変わりはないだろう!」
 ざわめく大人たちに、ウルカはうんざりした顔を見せた。その横顔を、セリーヌが不安げに見上げる。
「あの……」
「さっき言った通り、お前がそんな顔をする必要はない」
 縋るような視線に気がついた怪物狩りの女は、そっと少女の髪を撫でた。幼子に免じて、少しだけ大人になってやろう――しかたなくウルカは、もう一つの方法を提案した。
「ならもう一つ、≪アウチュー≫を手っ取り早く誘き寄せる方法がある。若い娘を夜の森にひとり歩かせればいい。今までの被害者と同じように、≪アウチュー≫は現れるだろう」
 どよめいていた村人たちに、ウルカの提案は冷や水となって落ち着きを取り戻させた。しかし彼女も本気で、そんな手段を取るつもりはない。
 すべて、霊薬を作る方向で意見をまとめるための戯言だ。
 しかし誰の思惑にもはまらず、セリーヌが声をあげる。
「それなら、わたしが囮の役をやります」
 ぎょっとしたのは、少女の祖父だ。
「セリーヌ、なにを言うのじゃ!」
「おじいちゃんは黙っていて」
 ぎゅっと手のひらを丸めたセリーヌは、真剣な眼差しでウルカを見上げた。 
「わたし、姉の仇をとるためなら、本当になんでもしたいんです。だから、お願いします。わたしに手伝わせてください」
 気丈な訴えとは裏腹に、セリーヌの脚は震えている。
 死の恐怖に踏み込んでまで、なにかを成したいという強い決意――その危うさに、ウルカは思慮深く目を細めた。姉の敵を討ちたいという、肉親の情から湧いた蛮勇とも取れる。だがそれ以上に目の前の少女から感じるのは、なにかに追い詰められているかのような後ろめたさだ。
 村人たちも揺れている。霊薬の完成を待つなら、怪物退治は月をまたぐ。首都への往復で少なくとも一ヶ月、また霊薬の精製にどれほどの期間を要するのか、彼らには知る由もない。
 次の犠牲者が出てしまう可能性を考慮すると、セリーヌの提案は魅力的だ。年端もいかない少女の身を案じはしても、自分たちの安全を担保にはできない。
 嘆息したウルカは、セリーヌの背に手を添えた。
「少し、この娘と二人で話をさせてくれ」
 彼女にはなにか、重大な隠しごとがある――直感的に、ウルカは察した。態度からして、それは大人たちの前では告白できない内容だろうとも。
「外を歩くぞ」
 熱のこもった室内に居たせいか、夜の空気が心地よい。昼間はじっとしていても、胸当ての内側が蒸れるような暑さだ。村に隣り合うルアン・シーゼの杜と呼ばれる大森林からは、清涼な風が吹く。
 小屋を離れた二人は、周囲を適当に歩いた。
「あの、ウルカさん――」
「ウルカでいい。言葉遣いも、そう畏まるな」
「じゃあ、ウルカ。≪アウチュー≫って、どんな魔獣なの?」
「魔獣ではなく、怪物だ。そうだな、大きさは納屋ひとつ分くらいか。体毛は深緑か焦げ茶色。顔は鼠に似ているが、口は裂け、歯は鋭いが並びが悪い。脚はなく、身体を揺らして歩行する。腕は左右と背中に生えている、長いのが三本だ」
「手が三つもあるの⁉」
「怪物とは魔神バロールが生み出した闇の存在だ。不気味で当たり前だし、それだけじゃない。体液は強力な毒で腐食性も高い。鉄を溶かすほどだが、それが薬に使われることもある」
「とても恐ろしいわ。ウルカは、そんな化け物と戦えるの?」
「私は怪物狩りの専門家だ」
「それに怪物と魔獣は違うなんて、はじめて知った。都会の学校では、そんなことも教えてくれるの?」
「いや、師の教えと経験から学ぶ……さて、セリーヌ」
 気がつけば小屋をだいぶ離れ、村の明かりも遠くなっている。ちょうど良い高さの切り株を見つけ、セリーヌを促して座らせた。
 ウルカは少女の眼前に膝をついて、目線を合わせる。
「セリーヌ。私に、なにか伝えたいことがあるんじゃないのか?」
「それは――」
 少女は言い淀んだ。
「あの……ええと……」
 唇を小刻みに震わせ、葛藤しているようにも見える。
 ウルカは、子どもの相手が得意ではない。だが自らの足で歩こうとする者に対しては、年齢に関係なく対等であろうと心がけている。
 その想いが伝わったのか、セリーヌはようやく口を開いた。
 少女の告白は短く、ウルカも質問を必要最小限に留めた。
「事情はわかった……このことは、ひとまず私の胸に秘めておく」
「いいの?」
「必要があれば話す、そうでなければ話さない。あとは成り行き次第だ。小屋へ戻るぞ」
 セリーヌを伴い小屋へ戻ると、大人たちの意見もまとまっていた。
 もはや計画を阻む者はない。
 少女を囮にした怪物狩りの依頼を、ウルカは正式に受け入れた。






02 白狼の森

 作戦決行は一週間後、満月と新月の夜に決まった。
「腹を満たしたばかりでは、≪アウチュー≫も誘いには乗ってこないかもしれない」
 怪物狩りの専門家に逆らう村人は、もういない。退治に必要な霊薬の精製にも時間がかかるため、彼女の邪魔はしない、と取り決められた──が、けっきょく不安は募り、迷信深い者たちの疑心暗鬼は消えない。そのあいだも大人たちの会議は何度か開かれ、ウルカも引っ張り出された。議題は頻繁に目撃される白狼への対応だが、騒ぐだけで話は進まない。
「白狼は恐ろしい怪物だって聞いたぞ!」
「なんでも音を立てずに近づいてくるそうだ!」
「森は危険だ、子供たちを絶対に入れちゃなんねぇ」
「大人だってヤバいだろう、白狼に襲われたらどうすればいい?」
 村人たちは、まだ誰も目にしたことのない≪アウチュー≫という怪物より、すでに姿を現している白狼を恐れていた。北原の魔獣には、自分たちの領域を侵す人間を襲う習性もある。しかし今回にかぎり、その可能性はないだろうとウルカは考えていた。
「村の周辺に魔除けの香を焚く。白狼が嫌う、水舐草を煎じたものだ」
 そう告げたウルカは適当な香を焚き、村人に白狼除けだと信じ込ませた。
「香の代金は別でもらうから、しっかり用意しておけよ」
 嘘も方便だ。実際、これ以降は一度も無駄な集会は開かれていない。
 食事の世話係を買って出たセリーヌは、その顛末を聞いて楽しげに吹き出した。
「わたしも、大人になったワオネルは人間を食べるって嘘をつかれたことがあるの」
 ワオネルは縞模様の可愛らしい獣で、、棲息地域が広い。寒さの厳しい北部と、砂漠地帯の多い南部を除き、大陸中で姿が見られる。霊薬の精製作業を進めながら、ウルカは自分のことなど棚にあげて肩をすくめた。
「それはひどい話だ」
「でしょう、まだ許してないの。許す前に、カリーヌはいなくなったから……」
「セリーヌ──」
「ごめんなさい、大丈夫よ」
 気丈に振る舞うセリーヌだが、決行の日が近づくにつれ、その表情からは色が失われていく。怖くないはずはない。ただ決して、弱音は吐かなかった。
 大陸を照らす二つの月――深蒼が満月で、薄紅が新月となる特殊な夜は、三ヶ月に一度だけ訪れる。伝説によれば双子のような二色の天体は実在の星ではなく、この世界を覆う結界の要であるという。真偽はともかくとして、二つの月が霊薬や魔術に及ぼす影響は大きい。
 今宵は、まさに土地の霊力が最大限に活性化する夜だ。
 集落はいつにない静けさに包まれていた。気配が多くては囮の意味がないと、村人たちには自宅待機を命じている。
 ウルカは土鳥の霊薬を塗った外套を身に纏い、準備を整えた。その魔術的な秘薬は、すり潰した影梟の肝が原料だ。聖水で清めた地元の土と混ぜ、黒銀の混合水に溶かしたあと、最後に月の葉を浮かばせて一晩寝かせて完成する。精製した周辺地域限定の霊薬ではあるが、衣類に塗れば存在をぼかしてくれる。 
 根が臆病な≪アウチュー≫は警戒心が強い。いくら少女を囮に使っても、他の大人が近づけば逃げられてしまう可能性がある。しかし土鳥の霊薬を纏えば、肉眼の届く距離まで接近を気づかれることはない。ウルカは何度か≪アウチュー≫退治を経験しており、これは実際に有効な方法だ。
 装備を整えて外へ出ると、セリーヌが待ち構えていた。本来はウルカが迎えにいくまで、家で大人しくしているはずだ。聞けば、祖父が土壇場になって囮役を引き留めようと泣きだしたので、逃げてきたのだという。
「セリーヌ、いまからでも止めることはできるんだぞ?」
「やめることはできるけど、そうしたら問題は解決しないでしょう?」
 震える手を握りしめながら応えるセリーヌに、それ以上かける言葉はない。ウルカは「必ず守る」と普段は口にしない確約を誓うと、セリーヌに古びた振り鈴を手渡した。
 くすんだ金色の手持ち楽器だが、揺らしてもかすかな音しか響かない。
「こんな小さな音で、ウルカに届く?」
「教会が作った特殊な鈴だ。普通の聴覚では捉えられない音域も、第六感なら感じとれる」
「怪物が出たら、この鈴を鳴らせばいいの?」
「そうだ、≪アウチュー≫は見た目に反して素早く動く。攻撃の射程も長い。逃げようとしても、すぐに捕まるだろう。だが警戒心も強いから、それを逆手に取る。じっと奴の眼を見つめて、慌てずに鈴を鳴らし続けろ。襲われるまでの時間が稼げる」
「そのあいだにウルカが駆けつけてくれる?」
「ああ、そこからは私の仕事だ」
 セリーヌは力強く頷いた。
 ウルカが隣を歩けるのは、森の手前までになる。村から歩いて、ほんの数分。それ以上は、同行者の存在を≪アウチュー≫に感づかれる可能性がある。いくら気配を誤魔化せる霊薬を塗っても、姿かたちまで消せるわけではない。怪物を確実に誘き出すためには、まずセリーヌがひとりで森をさまよう必要がある。
「セリーヌ、ひとつ懸念がある」
 森の入り口。鬱蒼とした木々の迷宮へと踏み出すセリーヌに、ウルカが声をかけた。少女は振り返らずに、首を振る。
「大丈夫よ、ウルカ。
 あの子は、本当に安全だから」
 小さな後ろ姿が、樹木の闇へと消えていく。
 その場に腰を下ろしたウルカは、あぐらをかいて両手を広げた。膝に乗せた手のひらを開き、上向きにする。瞼を閉じて、意識を心の奥底へ集中した。
 自然の気配が風を伝い、身体の内へと流れ込む。
 すると閉ざした彼女の視界が、眼球ではなく精神によって体外へ広がりはじめた。
 森の外に身を置きながら、森の中を探索する不可思議な感覚。
 肉体から解き放たれた意思が、樹海の奥深くへと根を張るように広がりはじめた。
 曖昧になる時間。
 現世と常世の境が歪む。
 精神が正常な五感を取り戻したとき、季節が変わっていても驚きはしない。 
 精神と肉体の時間は違う。だからこそ魂だけの世界では、肉体に在っては捉えられないものにも気づくことができる。
 そう例えば、遠く離れた鈴の音。
 ――リン。
 振り鈴の、涼やかで神聖な声。
 それが、けたたましく。
「――――ッ!」
 森に根ざした意識が、たしかに神聖な鈴の声を聞き取った。
 セリーヌの鳴らす音色に間違いない。
 ウルカの意識が、急速に肉体へと帰化していく。目を開ける時間すら惜しみ、身体を起こして駆けはじめる。
 正常に戻った聴覚に、もう音は響いていない。
 すぐさま仰ぎ、月の傾きから時を計る。
 まだ夜明けには遠いが、セリーヌが森に入ってからだいぶ時が経過していた。
「くそっ、瞑想が長すぎた……!」
 視界が揺れ、足がもつれる。
 これは心を解き放った代償だ。魂の離脱は、肉体に大きな負荷をかける。本来ならば時間をかけて心身を馴染ませなければいけないが、いまは一刻の猶予もない。
 深酒で酔ったようにぶれる体幹のまま、精神の記憶を頼りに樹木の群れを抜けていく。
 リン──リン、リンリンリンリンリンリンリンリンリン!
「聞こえた!」
 今度は、はっきりと。
 神聖な鐘の連打に混じって、ウルカの名を叫ぶセリーヌの声も耳に届く。意識もようやく、肉体に馴染みはじめた。三重、四重だった世界がひとつに戻っていく。ふいに音が止んだ。だがもう近い――眼前に立ちはだかる厚い茂みに飛び込み、その向うう側へと躍り出る。
「セリーヌ!」
 生い茂る薮の向こうは、巨大な樹木が等間隔に並び、隆起した太い根が絡み合う開けた場所。そして怪物に食われかけている少女の姿がある。
 皺の多い土気色の三本腕に捕われたセリーヌが、涙混じりに声をあげた。襲われた際に落としたのか、鈴は草の上に転がっている。
「ウルカ!」
 少女を掴む鞭のような長い腕を視線で追っていけば、そこには醜悪な怪物の姿。納屋ほどの丸く大きな体躯に、焦げ茶色の毛並み――≪アウチュー≫。
「茶色の毛並み……最近は、ブリギット方面から流れてくる亜種が多いな」
 鼠じみた魔物の顔が、ウルカに向いた。察知していなかった存在の登場に、ぎょっとした怪物が動きを鈍らせる。しかしすぐに歯並びの悪い口を大きく開くと、つんざくような威嚇の咆哮をあげた。
 背負った剣の柄に手をかけたウルカが、不敵に鼻を鳴らす。
「悪いが、おしゃべりの時間はない」
 片手で颯爽と剣を抜き、後方へ流すように構える。
 夜闇を裂く白銀の軌跡。
 刀身にいくつもの紋章が刻まれた、破邪の剣。
 抜剣と同時に、ウルカは闇祓いの力を発揮した。紺碧の瞳は優麗な群青に染まり、怪物狩りの刃が夜明け前の空に似た蒼の光を帯びていく。
「闇祓いの作法に従い──」
 厳かに唱えたウルカが、およそ人の領域を超えた速さで夜闇を駆けた。尾を引く蒼白の光は正面から真っ直ぐに突き抜け、その戦法に小細工はない。怪物狩りの女は瞬く間に≪アウチュー≫へ肉薄するが、その軌道を阻むように怪物の長く不気味な腕が鞭のようにしなる。
 しかし正面からの攻撃にも彼女がひるむことはない。
 雄々しい気迫が、怪物を圧倒する。
「お前は境界を侵した」
 低い姿勢で敵の攻撃を掻い潜ったウルカが、すぐさま伸びあがるように刃を振りあげる――瞬間、刀身に刻まれた模様が、ボッと焦げるように青くきらめいた。破邪の力を宿した刃が、≪アウチュー≫の腕をたやすく切断する。
「魂の場へと還ってもらうぞ!」
 飛び散る体液が髪を焦がすが、ウルカは気にも留めない。
 間髪を容れず、彼女は無手の片腕を突き出した。
 手のひらに集中する、膨大な霊力の波。
 それは呪文を必要とする魔術の理とは一線を画す、神秘の体現――闇祓いの秘儀。
「穿て──!」
 空気を歪ませる色のない波動が、≪アウチュー≫へと放たれた。
 荒れ狂う力の奔流が大樹の幹を揺らし、余波で枝がへし折れる。不可視の衝撃が破壊の渦となってうねり、悪しき存在を屠った。破邪の咆哮を正面から叩きつけられた怪物の巨体は、なす術もなく仰向けにひっくり返る。
 すると捕まったままのセリーヌが大きく振り回され、思わず悲鳴をあげた――刹那、木々の隙間から伸びる白銀の軌跡。無音のまま現れた白狼が、矢の如く飛びかかる。そして少女を拘束する怪物の腕に、雄々しく牙を突き立てた。 
 ――――ッ!
 声帯ではなく、魂から発する獰猛な唸り声。
 白狼が、土気色の腕を食いちぎる。
 しかし勢い余って、セリーヌが宙に放り出された。
「きゃっ⁉︎」
 助けようと動くウルカの眼前を、魔獣が悠々と跳躍する。その白い毛並みが、少女を華麗に受け止めた。自分と同じ身の丈を誇る白狼の背にしがみつきながら、セリーヌが涙ぐむ。
「ポチ、来てはダメと言ったのに!」
「冗談だろう、その名前はないな」
 ウルカは苦笑しながら剣を逆手に持ち替え、力強く地を蹴った。重力を感じさせない優雅な飛翔を披露した怪物狩りの女が、≪アウチュー≫の丸々とした腹に舞い降りる。
「ずいぶんと肥えた体だ。仕留めがいがある!」
 切先を下に向け、剣の柄を両手で握りしめるウルカの姿に、癇癪を起こした≪アウチュー≫が唸り声をあげた。激しく身体を揺さぶり、怪物狩りの女を振り落とそうとする。
「往生際が悪いな!」
 しっかりと股を開いて踏ん張ったウルカは、怪物の口内へ容赦なく剣を突き下ろした。乱雑な歯で刃を噛み砕こうと試みる≪アウチュー≫だが、蒼白の刀身には傷ひとつ与えることはできない。
「無駄だ! 霊鉱スフィアを鍛えた剣は、巨人が踏んでも折れはしない!」
 体重を乗せたウルカは、さらに怪物の奥深くへ刃を食い込ませていく。残された最後の力を振り絞った≪アウチュー≫が、腕を大きく振り上げた瞬間――ウルカは唱えた。
「冥府の炎に焼かれるがいい!」
 剣を媒介にした破邪の力が、アウチューの体内へと伝播する。刀身の模様が再び青い熱を帯び、そして魔獣の血に引火する特殊な炎が顕現した。
 怪物殺しの煉獄が≪アウチュー≫の傷口から広がり、燃え盛る。霊力の焔は一瞬で悪しき存在の血液を蒸発させ、魔力、精神、邪念に至るまでを容赦なく滅ぼした。
 力を失くした三本指が、ウルカの肩を撫でるように打つ。そして虚しく、すぐに地へ落ちた。怪物狩りの仕事は無慈悲に、断末魔の暇すら与えはしない。 
 そして≪アウチュー≫は絶命し、焦げた血の悪臭だけが残る。
「やったわ、ウルカ!」
 白狼の背中から降りたセリーヌが、闇祓いの腰に抱き着いた。
 剣を鞘に納めたウルカが「怖い思いをさせたな」と少女の背を柔らかな手つきで撫でる。
 するとセリーヌの無事を見届けた白狼が、ゆっくりと踵を返した――刹那、あらぬ方角から魔獣に向けて矢が放たれる。しかし使い手は弓に慣れていないのか、狙いは大きく逸れた。白狼を外れた鏃は、代わりに≪アウチュー≫の死骸へ当たるが、焦げてもなお丈夫な毛皮に弾かれてしまう。
 ウルカ、セリーヌ、白狼、その視線が集まる先で、茂みから上半身を覗かせたのはセリーヌの祖父だった。
「おじいちゃん⁉︎」
 青い顔で次の矢を番えた老人が、白い魔獣を見据えながら唇を震わせた。
「やっ、やっぱりおった、おったぞ!
 白狼だ! 白狼もおったんだ!
 おい、あんた、追加の金を払う。その白狼も退治してくれ!
 こいつはセリーヌを狙っておる。殺してくれ、頼む!」
「おじいちゃん、違うの!」
 ウルカから離れたセリーヌが、白狼の首にしがみついた。身を挺して射線を塞ごうとする孫娘の姿に、老人が困惑を露にする。
「ど、どきなさい、セリーヌ!
 な、なぜ魔獣を庇う? どうなっておるんじゃ……?」
 ぐっと唇を引き結んだセリーヌは、白の毛並みに顔を埋めた。少女の哀しみを慰めるように、白狼も身を寄せる。
 幼子の視線が、ウルカに縋った。
「ウルカ……」
「いや、私は──」
 本来ならば関わるべき問題ではない、と怪物狩りの女は躊躇う――が、けっきょくは懇願に絆され、頷くはめになった。幼い身で≪アウチュー≫退治に身体を張ったのだ、それくらいの見返りはあってもいいと思い直す。
「まずは森を出るぞ。≪アウチュー≫がいなくなっても、夜の森は危険だ」
 本来ならば≪アウチュー≫の死骸を検分し、霊薬の材料として使えそうな部位を切り取りたいところだ。しかし幼子と老人を夜の森に居続けさせるわけにもいかない。
 心の中で舌打ちしながら、ウルカは渋々と帰還を選択した。
「白狼については、そう長い話じゃない。村に帰る道すがらでも、十分に話はできる」
 老人から弓を取りあげたウルカは、共に先を歩くよう促した。
「セリーヌは、あとからついてこい」
「うん、わかったわ」
 すると老人が「他の怪物が現れたらどうする!」と孫娘を案じるが、ウルカは「老いぼれよりも白狼のほうが守護者として適任だ」とはねつける。
 それからセリーヌは指示された通り、先を行く二人から距離を置いた。肩越しに振り向いたウルカの視線が、偶然にも白狼の眼差しと重なる。怪物狩りの女と魔獣──両者のあいだに、言葉とは異なる意思が交錯した。
「──、……?」
 ……、……。
 魔獣は多かれ少なかれ、知性を宿しているという。
 白狼の強い眼差しは、まるで「セリーヌのことは任せろ」と言わんばかりの真摯な光を秘めていた。
「おかしな魔獣だ」
 気を取り直したウルカは、隣の老人に視線を向けることなく、ため息まじりに口を開いた。
「これから話すのは、セリーヌから聞いた話だ」
 ウルカの記憶が、セリーヌと会った初めての夜にさかのぼる。
 大人たちの小屋から抜け出したあと、少女と交わした秘密の会話。
 姉を失った幼子が吐き出したのは、殺人の告白だった。
 一ヶ月前、セリーヌと姉のカリーヌは森で遊んでいたという。
 片方が森に隠れ、もう片方が相手を探すという遊びだ。隠れる側は、探し手に見つかれば負けとなる。逆に一定の時間内に見つからなければ、隠れた側の勝ちだ。誰もが知っている平凡な遊戯。
「あの日、隠れる側になったのはカリーヌで、わたしは探す側だったの……」 
 姉の悲鳴が響いたのは、遊び始めてすぐだったらしい。
 駆けつけたセリーヌは、酒に酔った村の男がカリーヌを組み敷いている場面に遭遇した。
「いや、やめて──」
「うるせえ、黙ってろ!」
 とっさの判断で木の棒を拾いあげたセリーヌは、男の頭を殴打したという。 
「カリーヌから離れて!」
「痛ぇっ⁉︎」
「カリーヌ、大丈夫⁉︎」
「セリーヌ、セリーヌ!」
 姉は危機を脱したが、半端な攻撃は泥酔した相手の反感を買った。腰から錆びたナイフを抜いた男が、今度はセリーヌに襲いかかり――その窮地を救ったのが、唐突に茂みから飛び出してきた白狼だった。
「白狼は一噛みで男の喉笛を食いちぎり、その命を容赦なく奪ったそうだ」
 二人は次に自分たちが殺されるのだろうと怯え、身を寄せ合った。しかし白狼は姉妹を一瞥すると、そのまま身を翻して立ち去ったという。
 姉妹は話し合い、男の遺体を森に埋めた。
 つまりセリーヌにとって、白狼は恩人ということになる。
 首を振ったウルカは、最初に村の小屋で口にした台詞を繰り返した。。
「白狼は無駄な狩りをしない」
 信じられないとばかりに、老人が身を震わせる。
「そんな、なんてことだ……」
「たしか、ひとり遺体の見つかっていない行方不明者がいたな」
「マシュマーだ、大酒呑みのマシュマー。いや、しかしどうして、それならば本当のことを話せばよかった。セリーヌたちはなにも悪くない、殺したのも白狼じゃないか」
「だからこそ、だろう。お前たち村の大人は事情を聞けば同情こそすれ、人を襲った白狼を危険視するに決まっているからな」
「セリーヌは、白狼を庇ったというのかね?」
「セリーヌと姉は、その後も何度か森に足を運んでいたらしい。食べ物を届けに行って、実際に何度も白狼と接触している。魔獣が人に懐く習性は聞いたことがないが、どんな種族にも例外はあるからな。とにかく二人は、白狼に恩と情があった。それにあの年頃だ、男に襲われたなんて話を他人の耳に入れたくはないだろう。この話を、村の大人たちにするのか?」
 そうなれば今度は、白狼殺しを依頼されるだろう。受ける気はないが、自分がやらずとも他の誰かが遂行するかもしれない。しかしウルカの懸念は杞憂に終わる。
 老人は躊躇いながらも、首を横に揺らした。
「怪物は死んだ。姿の消えた者は、すべて怪物の餌食になった。それでいいんじゃろう?」
 カリーヌは亡くなった日、ひとりで森に入ったという。友人の家に招かれていたセリーヌは不在で、姉は退屈していたそうだ。もしかしたら白狼に会うために森へ赴いた矢先、怪物の餌食になったのではないか──そうウルカは推測した。
「だとしたら……」
 ウルカはもう一度、肩越しに振り向いた。
 セリーヌに首を抱えられた白狼は、くすぐったそうに眼を細めている。
 ひょっとしたらこの魔獣は、カリーヌが命を落としたことに責任を感じて、≪アウチュー≫に復讐したのかもしれない。そんな考えが荒唐無稽に思えないのは、先ほど見た白狼の理知的な瞳のせいだろうか。
「いや、考えすぎか」
 村が近くなり、人の気配が濃くなると、白狼は自然と足を止めた。セリーヌも連れていけないことは承知しており、鼻先にそっと口づけて別れを告げる。 
 祖父の様子を気にかけながら、少女はウルカを見上げて尋ねた。
「ポチはどうなるの?」
「私はなにもしない。だがこのまま村人に目撃され続けると、いずれは誰かに殺される」
 セリーヌの瞳が不安と恐怖で揺れた。
「そんな……」
 ウルカに白狼の存在を告白したのは、無害な友が間違って処理されるのを恐れたからだ。祖父に肩を抱かれながらも、少女の視線はじっと闇祓いの女に注がれたまま離れない。
 助けて、と口にする無責任さをセリーヌは心得ている。
 白狼は魔獣だ。人に忌み嫌われ、恐れられる。多くの平穏な民からすれば、≪アウチュー≫と白狼は同義の危険な怪物でしかない。
 ウルカは諦めたように嘆息すると、無遠慮にセリーヌの髪を撫でた。なんとかしよう、という意思表示だ。その厚意を受け取った少女が小さく「ありがとう」と口にする。
 すると闇祓いの女が視線を伸ばした先で、白狼はすべてを承知しているかのように小さく頷いた。
「まさか、人の考えがわかるなんて言うなよ?」
 魔獣は知性を宿すというが、白狼が人語や人心を理解するような例は聞いた覚えがない。
 無音の狩人はそれ以上なにも語らず、さっと身を翻した。
 白い毛並みは夜の森へと消える。
 あとには茂みの音ひとつ残さなかった。






03 影無き者の名は

 村に戻った一行が怪物退治の成功を報告すると、深夜にも関わらず盛大な酒盛りが催された。村では宴の神が信仰されており、死者の魂を酒と料理で送るのだという。
 ≪アウチュー≫が駆逐され、殺された者たちにも安寧が訪れる、そう村人たちは信じていた。大陸でもっとも信仰されているダーナ神教の葬儀は厳粛だが、こんな空気もウルカは嫌いではない。
 しかし彼女は報酬の残りを受け取ると、荷物の整理を手早く済ませた。宴には参加せず、日が昇る前には出立するつもりだ。
 喧騒の片隅で黙々と出発の準備を整えるウルカを、今夜ばかりは大人の宴会に混ざることを許されたセリーヌが見咎める。
「まさか、もう行くつもりなの? ウルカは英雄よ。宴の主役なのに」
「少しのあいだはな。この村で、最初に会った頃を覚えているだろう、私のような奴は、けっきょく異端者でしかない。怪物と渡り合える者は、すなわち怪物の同類だ。用が済めば、次は疎まれる」
「ひどいわ、そんなの。多くの人を救ったのに」
「いつものことだ。それに名前も知らない連中に上辺だけ称えられるより、ひとりの勇気ある少女の英雄でいるほうが気分も良い」
 鞄の留め具をぱちんと閉め終えたウルカは、セリーヌの髪を乱暴に撫でた。くすぐったそうに首をすくめた少女は、自分の頭に置かれた武骨な指を頬へと手繰り寄せる。
「貴女のことを忘れないわ。貴女と同じ人がいつか現れたら、きっと協力する。約束する」
「私と同じ人?」
「名前があるって聞いたことがあるの、ウルカみたいに怪物退治をする専門家を呼ぶ、ちゃんとした名前。ええと、なんだったかしら。とても簡単な綴りだったのよ。でも、どうしてか思い出せない。そういえば怪物退治に使っていた青い剣、とても綺麗だったわ」
「私たちの剣は特別だ、破邪の力で青く……なんだか熱いな、大丈夫か?」
 手で触れてわかったが、セリーヌの頬は上気していた。興奮によるものではなく、酒精だと気がついたウルカは苦笑した。彼女は宴の酒を飲み、酔っている。
「七王国の法では、飲酒は十五からだったな。だが怪物退治を成し遂げた女なら、今夜くらいはいいさ」
 少女に手を取られたまま、ウルカは鞄と麻袋を持って歩き出した。
 互いの肌が触れていた時間は、ほんのわずかなあいだしかない。しばらくしてからセリーヌは、なにも言わずにそっと指を解いた。それでも離れず、見送りにはついて来る。
 闇が薄れ、星はもう見えない。
 村に隣り合う森の向こうでは、空がゆっくりと白みはじめていた。
 夜明けの前触れと、ひときわ冷たい空気に出迎えられたウルカは、立ち止まらずに村の外れへと足を進める。セリーヌだけが別れを惜しむように瞳を揺らし、やがて足を止めた。
 そして旅立つ女の背中へ、声を張りあげる。
「ポチのこと、お願いね!」
 少女の嘆願に合わせて白い輪郭が茂みから姿を現すと、ウルカは思わず頬を引きつらせた。人語を解するどころか、場の空気まで読む魔獣など聞いたことがない。
 セリーヌはそんな光景を目に焼きつけながら、ようやく長い悪夢が終わるのだと実感した。視界が涙で滲む。
「さよなら、ポチ」
 やがて木々の隙間から黄金色の光が差すが、ウルカの影は地面にのびない。目を見開いたセリーヌは、ふいに忘れかけていた逸話を思い出した。
 怪物を屠る、人にして人ならざる青い瞳の戦士。蒼白の刃を携え、光を浴びても影を落とさず、闇にあっても決して迷わぬ者たちの名を。
「ありがとう、ゲイザーのウルカ」
 世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命を憂い、邪な勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払う術を用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ。





04 次回予告

 稲穂が揺れ、運河が交錯する豊穣の都ブリギット。
 忌み子と蔑まれる少年ユウリスは、その街で傷ついた白狼と出会う。
 子供達が遊び半分で手を出した召喚の儀式オートマティスム。
 無邪気な好奇心につけこむ悪意の胎動。
 死者の眠る地に撒かれた闇に、凍てつく異界は産声をあげる。
 影の国の使者と共に、厳かな森に顕現する災いの兆し。
 悪戯好きの妖精プークが指をまわすとき、運命の歯車は動きだす。
 次回 第一話 妖精の啓示
 風が、物語の扉を開く。





【あとがき】
 最後までお付き合いくださり、誠にありがとうございます。上記のような文章を執筆しておりますので、なにかお手伝いできることがあればお声がけください。どうぞよろしくお願いいたします。
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