(329日目)真の「良い人」ってただ優しく見られたいだけちゃうの?

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コラム
昔から自分のことを良い人間だと思い込んでいるものの、周囲からはそう見られないことが多々あるためフラストレーションを溜め込んでいる45歳。

特に以前の職場では『目が笑ってない』とよく言われた。まぁ精神がギスギスしてましたから仕方ないですな。仕事での成果が第一目標となっていた時期だったので、その内面が表情に出ていたんでしょう。
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言葉では、仕事を続けるか悩む相手を気遣うように優しい言葉をかけながらも、内心は組織維持のために『いかにして言いくるめて翻意させるか』ってことが第一優先事項でしたし。

そんなブラックな時代…懐かしいなぁ。


さてさて本題。

今日は良い人の定義について考えてみたいと思います。

良い人と聞くと『優しい人』『気遣える人』『共感してくれる人』などなど頭に浮かんできます。別に難しい問いかけでもないですよね。

しかし、それは本当にあなたにとって良い人なのか?

自分の気持ちに寄り添ってくれれば気持ちは救われます。落ち込んだ時に優しくしてくれれば縋り付くこともできます。なんなら『自分は悪くなかったんだ!』なんて思えて気分が晴れるでしょう。

しかし、それは痛み止めの役割でしかないと思うんですよ。悩みの原因が無くなったわけじゃない。憂鬱な気持ちの根っこは消えない。共感してもらったところで自分の悩みが減るわけでもない。
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そう考えると

「真の優しさ」って別モノじゃないか?

と思うわけです。

私がこれまで接してきた中で、自分の思考を変えてくれた人・自分の悩みの原因を解消するきっかけを与えてくれた人・人生の転機を与えてくれた人って、一見優しさを感じない人ばかりでした。

厳しく叱咤されますし、間違いを指摘されますし、とことん原因を振り返ることを強要されました。ぶっちゃけて言うと、かなりしんどい体験させられました。

しかし、この機会があったからこそ自分をリセットできたのも事実です。自分の弱々しい考え方を改めることができて、他責思考だった自分に気づくことができて、他人への真の思いやりとは何か?について考えることができました。

そう考えると真の優しさとは「相手のことを考え抜いて、厳しい言葉も投げかけてくれる人」のことを言うのかもしれません。
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真の優しさについて以下のように定義しました。
①相手の悩みの本質を見極める問いかけができる
②相手の将来を思えばこその厳しい指摘ができる
③押し付けることなく相手自身が考え抜く機会を与える

その場凌ぎの優しさなんてツユほどにも役に立たない。優しい言葉をかけられたその瞬間は心地よいですけど長期的に効果は望めません。同じ問題にまた直面して悩み出してそれを繰り返す…そんな未来が簡単に想像できます。


今、自分が思い出す人たちは厳しさのある人ばかりです。しかし記憶に焼き付いていて、その人たちを思い出すたびに今の自分を振り返る機会に恵まれます。


私が他人から相談を受けるときは、その人たちとの出会い・体験がベースになっているのは間違いありません。

そんな人たちとの出会いがあり、自分の体験があって、いま自分が相談を受けた時にその人たちから得た「真の優しさ」をベースにして、相手の未来を想像しながら最適な言葉をかけられるように心がけています。

もちろん話を聞くときは寄り添いつつ、問題を掘り下げます。そしてそれに至った原因を突き詰めます。最も大切なのは、それらを理解した上で『どうすればよかったか』『何ができるか』を考える機会を与えることです。
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人間は考えることで成長します。自分の苦境から脱却できます。『悩むくらいなら考えろ』が私が真の優しさを持った人から教えられたことです。

私は人を見ます。

他責思考の人には厳しい言葉をかけるでしょう。弱さが言葉・表情に表れている人には厳しくも、あなたの持ち味を見つけて言葉をかけるでしょう。しかし自ら考えて人生を切り開こうともがいている人には優しい言葉・背中を押すような言葉をかけるでしょう。

要はTPO考えてまっせ、ってことです。だって、お金使って時間使ってくれるんだから、価値が残せなきゃ意味ないじゃん。
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