『合うもの』と『合わないもの』と『タイミング』と・・・

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年の瀬となり、新年に向けての準備があちこちでなされてますね。
自分は掃除が苦手・・・
正確には、取り掛かるまでが苦手。。
実は、掃除をはじめたら意外と夢中になっているなんてことがざらにあります。もっとこまめにやればよいものを・・・
これでは神様もあきれ顔(しかたないなぁ・・・くらいに思っててくれたらよいのですが・・・)になっちゃいますよね。
神様に限らず、キレイな空間、広く感じられる空間って誰にとっても、もちろん自分にとっても快適ですよね。
いつもこういったイベント?みたいな時期にならないと手をつけられないのがまぁ自分らしいといえばらしいですが・・・(笑)
なぜ神様の話をしたかというと、ちょうど年の瀬、新年にかけて、神社へお参りに行かれる方も多いかな、と思ったからでした。そんな自分もまさに今日、とある神社にお参りに来ました。
夏に、今の会社の中で転勤となって以来の参拝・ご祈祷で、なんとなくバタついていたのか、しばらく顔を出せていなかったので、このタイミングで!と思い、行ってきました。
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「やっぱり神社って清々しい~」って、だいたいの方は言うと思うのですが、自分としては清々しいというよりも、ご祈祷に行けたことで、しばらく顔を出せていなかったことの罪悪感を拭うことができた安堵感、という方がぴったりでした(笑)。
ご祈祷の際には、たまにカラダに電気が走るような感覚があったりした自分ですが、最近は(ってぜんぜん顔を出せていなかったのが事実・・・)あまりそんなこともなく、なんか感度が上がったかな、と思っていたのに、最近はほとんどそういったことを感じる機会もなくなったなぁ、と少し寂しい気持ちにもなったりしました。
まぁこれが正直な感想で、もっと感じることができたら良いのに・・・とは思いながらも、でも、それがないということが、今の自分にぴったりの状況、感覚なのだとも思うのです。なにもないことの幸せといったら!!!
本当にこういうことなのだと思います。
最近の自分は「立ち止まること」、求め続けることへの「降伏」を学びました。
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勝負の世界では、誰しも必ず負ける、というのが真理だと自分は思います。求め続け、得続けるために絶えることのない努力をすることは決して悪いことではないと思うのですが、「求めるべきこと」への努力をしない限り、「負け」と「降伏」がいずれ訪れる、、、これは真理であろうな、と。
かつて、自分もThe昭和的な「努力は報われる」を信じ、また求めたいもの・こともわかっていないのに、その当時の世間の常識や周りの雰囲気で生み出された良いと定義された「創造ブツ」を「仮置きの求めるべきもの」として、懸命に努力をして得たいと思っていた記憶があります。生存するために、物質的欲求が最優先の時代であれば、それでよかったのかもしれません。ただ、イチロー選手も言っていた(はず)ように、「正しい努力でなければ努力は報われない」と最近はよく体感として理解できます。
いや、本当はもっと前からわかっていたけど、ずっとココロの中に隠していて、「自分は正しい努力をしている(はず)」と思い込んでいた、というのが正しい表現かな、、、
自分が本当に求めるものはなにか?わかっている人は実はほんとに少ないと思います。自分もそのひとりです。なのに、なにかいまよりももっと「良いと思われるもの」を求め続けないと、置いていかれてしまうみたいな強迫観念があって、自分も〇〇セミナーだの、〇〇メソッドだの、た~くさん自己投資という美辞麗句を旗印に自分で自分を騙して、学び続けて数年が経ちました。
結果、、、正直なんもない・・・
いや、成果はなにか、というと、まさにこれなのです。「なにも得られないよ」ということを体感できたことだったのです。
たとえば、神社でのご祈祷なんかもその例に挙げられるかもしれません。。。
ご祈祷すればよいことが叶う、とか、そもそもエゴの塊ですよね。
そんな人に対して、実物として存在している人間ですら「ちょっとこの人を助けよう・・・」って思わない。。。
じゃぁなにもしないのが良いのか?というと、、、自分はそうなのだと思います。但し、「その時」が来るまでは・・・
憶測ですが、正しい努力の対象物が目の前に現れるタイミングはひとそれぞれ。少なくとも、ここ数年の自分はそのタイミングではなかったのでは?と思っています。そしてこの先もいつ現れるのか、さっぱりわかりません。まぁ焦りますよね。
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でも、だから、焦らず、「その時」が来るまで、なにもしないのが良いのかな、と思います。なにもしない、というのはちょっと言い過ぎで、少なくとも、「内観」をじっくりすることがしいて言えばやるべきことなんだろうと・・・
自分がなにものか、なにを求めているのか、それは自分の内面に隠れているなと体感として自分は思いました。
よく「行動とアウトプット」がないからインプットだけだから・・・なにも得られないのだ、という声があることも理解しています。
でも、「行動」も「アウトプット」も、「その時」にやるべきことなのではないか、と思うのです。
その時、ではない時にやっても、成果にはならない、むしろ苦痛としての失敗が溜まるのみ。それだけならまだしも、メンタルやってしまったら、そもそもなにもしない方がよかった、になると・・・自分は痛感しています。
最近ではよく言われる「瞑想」も「ファスティング」も「メソッド」も良いですが、それらをやるべきタイミング、というのがひとそれぞれ異なるのではないか、というのがここ数年で自分が学んだことでした。だから、セミナーで集客されてそれでアウトプット(言われたとおりにやってみるとか)しても、最初から「気持ちが乗ってない=その時ではない」からうまくいかないのではないかと思うのです。
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こんなことを考えていると、金持ちになるための体系的なメソッド、的なセミナーや学習教材というのは、本当になんというか、、、もったいない・・・運よくそのタイミングに合った人は完璧なのでしょうけどね・・・
また、そのノウハウやらは、つかむべき意義がある人にしか役に立たないようになっているとも思うのです。
たとえいま自分で「こんなことしたい!」という夢をもっていて、それに向けて必要なノウハウだと思い込んで努力して勉強し、高額のカネをかけても、「意義の対象となるべき人」でない限り、最大限の成果って出ないのだろうな、と自分の経験から感じます。
「努力の対象が正しいものでなければ努力は報われない」
これが真理だな、と・・・
神社へのご祈祷とこのブログの内容を掛け合わせると、どれだけ「素」で「ニュートラル」で、「中庸」でいられる状態で、「究極に素直」な夢、志、に対してのみ、神様は助けを出してくれるのだろうな、ということかな?と思います。
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それと、「やり遂げる力を養う」ために、今からなにかを継続することも今やるべきことなのかな、と思います。
すべて、ここ数年の自分の経験から感じたことです。
無駄とは言いません。だって、意味がないと体感できた経験値を得られたわけですから。。。ただ、最短・最速を求めるならば、他人に依存(セミナー、メソッド・・・)してなにかを得るのではなく、ただひとえに、その時を待つ、そのがんばらない地道な行動こそが、やるべきファーストステップではないか、と思う年末でした。
なので、自分はとにかくいまはがんばらないことをがんばります!(笑)
少しでも、このブログで、気持ちがラク、になってくれる人がいたらうれしいなぁ~・・・
また、書きますね!!!
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