プロローグ
ここは北海道・森町の山あいにある川。冷たい秋風が木々を揺らし、シラカバやカラマツの黄色く色付いた葉が、周囲の深い緑を映した川面に色を添えていた。川のせせらぎと鳥のさえずりだけが響いている。水面には朝陽がまばゆく煌めいていた。ここには日常の喧騒とは無縁の時間が流れている。
その川のほとりに、一人の若い男が佇んでいた。
彼の名はユウト。キャップの上からアノラックパーカーのフードを被っている。真深く被ったフードの下には、川の流れをじっと見つめる鋭い眼差しがあった。釣り竿を持つ手は大きく、揺るぎない。彼の釣り姿は、どこか風格すら感じさせる落ち着きをまとっていた。揺らめく水面の下で逃げ惑う獲物の姿を見通すかのように、あるいは、目の前の釣り糸の先などとは関係のない、まるで長年待ち続けた答えを手に入れようとしている瞬間のような、そんな眼差しだった。
その少し離れた場所に、もう一人の男が釣り竿を持って立っていた。
名をケンジという。こちらもまだ若い。アウトドアには少し似つかわしくない、色の褪せたデニムパンツに幾何学模様のシャツ。黒のダウンベストを羽織ってはいるが、川風に晒されるその姿はどうも寒そうに映る。身体を揺すり、終始落ち着きがなかった。視線も川面や周囲の木々、果ては空を見上げたりと、なかなかひとつの所に留まらない。ケンジの頭は、水面の下の魚より別のことでいっぱいだった。
彼は数日前、函館のショッピングセンターで家庭用ウォーターサーバーの営業をしていた。
その日、彼は懸命に前を通る買い物客に声を掛けたが、すべての人に断られ、一件も契約を取ることができなかった。そんな日もあると割り切ろうとしても、なかなか気は晴れなかった。断られ続けていくうちに、なんだか自分という人間の存在まで否定されたような気になっていたのだった。
「もう少し頑張れば、誰かが振り向いてくれるはず」
そう自分に言い聞かせながら、内心では、焦りと不安が募るばかりだった。自分がどれだけ頑張っても、届かない思いがあるのかもしれない。高校時代だってそうだった。誰よりも練習したという自負はあるのに、野球部ではスタメンを勝ち取ることができなかった。就職してからもこれという成果は上げられないまま。ケンジは、自分に確固たる自信を持てないでいた。
ため息を吐いて顔を上げた時、上流のほうで釣りをする男が目に入った。ふとした拍子に黒いフードから男の横顔が覗き、ケンジの目はそこに留まった。男の顔に見覚えがあったのだ。
(あれ?あの人は確か……)
数日前、あのショッピングセンターで、自分の営業を笑顔で断った男だった。無表情、またはあからさまに嫌な顔をする客も多い中、男のその笑顔は、あまりに爽やかで邪気がなく、ケンジとしては気分的に癒されもしたのだった。端正な顔立ちで目立っていたというのもあり、よく覚えている。あの彼だ。わずかな期間にこんな辺境の地で会うことなどあるのだろうか。ケンジは胸の奥がざわつくのを感じながらも、その男の釣りの姿に次第に目を奪われていった。
ちょうどその時、ユウトの釣り竿が「グワン」としなった。折れるのではないかというくらいの角度で竿が曲がっている。竿先は水中に引き込まれんばかりだ。30センチほどのアメマスなら、もっと矛先が暴れる。深く、ゆっくりと矛先が沈み込む感じは、かなりの大物という可能性が高い。
釣り竿を握るユウトの腕にも緊張が走った。
「よし」
ユウトは小さく呟いた。そこから始まったのは、まだ見ぬ大物との静かな戦いだった。ケンジは吸い寄せられるように一歩、二歩とユウトに近づいた。竿が水面に深く引かれ、ユウトの全身がそれに応じてしなりながら、竿を反らせる。水面のすぐ下で、黒っぽい影が激しく揺れている。大きな影だ。
バシャン、とそいつは、大きな体躯を川面で翻した。ぎょっとするほど大きい。竿先が慌ただしく、暴れ始めた。右に、左に、動きが激しくなる。
(すごい)
ケンジは心の中でつぶやいた。いや、声に出ていたかもしれない。こんな浅瀬の川にあんなに大きな魚が潜んでいたなど、思ってもみなかった。ケンジは今しがた自分の目前にあった川を初めて目にするもののようにまじまじと見つめたあと、激しく揺れる釣り糸の先の、男の姿を見た。ユウトは、時おり身体をひっぱられながらも、落ち着いていた。腰を落とし、竿の根元を足の付け根で支えている。口の端をやや上げて、彼は笑っていた。獲物との駆け引きを愉しんでいるのだ。30センチのアメマスを釣り上げて喜んでいる自分とは違う。同じ空間にいるはずなのに、ケンジには彼が別世界の人間のように見えた。
その格闘は、20分もの間続いた。
ユウトの顔には汗が浮かび、手元の釣り竿を握る指が白っぽくなっていた。だが、ケンジには彼がまったく焦っていないように見えた。魚は、今わの際と知っての暴れようだ。流れの早い小さな滝つぼに逃げ込もうと、すさまじい抵抗を見せる。水しぶきがケンジのほうにまで飛んできた。あちらも生きるのに必死なのだ。それでも、ユウトは動揺することなく、竿をグッと立て、腰で支えた。
「頑張れ」
思わずケンジの口から声が漏れた。今度ははっきりと出ていたのだろう。ユウトの視線がケンジのほうに向いた。彼の目は緊張に満ちていながらも、楽しげだった。どこにそんな余裕があるのか、と驚くケンジに、ユウトは微笑みかけた。
ケンジの胸の奥がまたざわついた。
まるで、自分が釣り糸の先にいるかのような錯覚さえ覚えた。
(この人は、一体何を考えながら、こんな風に落ち着いていられるんだろう?)
そのとき、ユウトが一気に竿を引き寄せた。
ついに、その大きな魚が水面から飛び出し、引き寄せられるようにユウトの網の中に収まった。釣り糸がパチンと鳴り、戦いが終わったことを告げた。ライン(糸)が切れたのだ。魚は網の中でバチャ、バチャ、と未だ激しく暴れていた。息を弾ませながら、ユウトは魚を見つめた。ブラウントラウトだ。少なく見積もっても、60センチはあるだろう。ケンジは駆け寄って、声を掛けた。
「すごいですね! この川に、こんな大きな魚がいるなんて」
ユウトは、にっこりと微笑み返した。
「ね! やっぱり、いたね」
「やっぱりって、こんな大物がいるって、知ってたんですか?」
「うん。知ってたというか、いるかな、って予想はしてたよ。この川、周辺の川に比べると、アメマスとか、ヤマメが少ないから」
「そういえば、そうかも」
「そうそう。ここより下流で、これよりもっと小さい30センチほどのブラウンを釣ってさ。ひょっとしてって思ったんだよ」
ユウトは、手際よく魚のこめかみあたりに刃を突き刺して、魚を〆た。尾をのけぞらせて痙攣したブラウントラウトは、それきり動かない。あんなに暴れていたのに、あっけないものだ。ユウトは川で手を洗いながら、ケンジにブラウントラウトの話を始めた。
ブラウントラウトは、本来、北海道に生息する魚ではなく、外来魚である。北海道では、1980年代に確認されて以来、生息域を広げていた。魚食性が強く、サクラマスの幼魚であるヤマメや、小型の在来種が捕食され、生態系に影響を与えるため「要注意外来生物」に指定されている。ブラウントラウトが大きく成長するのは、その食性にあった。ネズミや蛇も食べるという。ちなみに、同じ外来魚であるニジマスにも魚食性はあるが、主に食べるのは昆虫で、在来種を脅かすほどではないと言われる。
「だからね、ブラウントラウトが生息する川は、在来種である魚は少ないんだよ」
「へえ、知らなかった」
とケンジは、何度も頷いて聞き入っていた。
ユウトは、切れたラインをたぐり寄せ、竿を小さくたたみながら、何かを思い出したようにケンジをまじまじと見た。
「あれ? 君、この前、函館で会ったよね?」
「あ、バレましたか」
ケンジは恥ずかしそうに少し笑って頭を下げた。自分のことなど覚えてはいないだろうと思っていたのだ。
「ウォーターサーバーの販促をしてたんです」
「ああ! そうだった、それだ。あの時は断っちゃってごめんね」
「いえ、そんな。いいんです。結局、あの日声掛けた人、全員に断られましたから」
ケンジは力なく笑った。
「全員に? それは、つらいね」
ユウトは本当に驚いたように言った。その率直な物言いからは、妙な気遣いや中途半端な同情など感じられなかった。そのせいか、言うつもりもなかった弱音というやつが口から出てしまった。
「俺、結構、頑張ってるつもりなんですけど、それがウザいのかな……」
ユウトは少し困ったように眉を下げた。何も言わず釣り道具を片付けている。それもそうだ。いきなり、初対面も同然の男に弱音を吐かれても困るだろう。ケンジは後悔した。
(否定してほしかったのか? 励ましてほしかったのか?)
いや、気にしないでくださいとケンジが言いかけた時、彼はゆっくりと顔を上げ、こちらに視線を向けた。
「なんで、僕がこの魚を釣れたと思う?」
ユウトは穏やかに笑って言った。
「え? えっと、ブラウンがこの川にいるんじゃないかと思ったから?」
「うん。その通り。じゃあ、なんで、この川にいるって予想できたと思う?」
「それは、えっと、他の川に比べて、ヤマメとかアメマスが少ない、から?」
「そうそう。あとは、ブラウンの生態や、在来種を取り巻く環境とか、事前の知識があったからなんだよね。この予想を仮説、と言ってもいいね。でも、この仮説だけでは、釣り上げることはできなかった」
「どういうことですか?」
ケンジは戸惑いながら尋ねた。
ユウトは、微笑みながら、川面のほうを見やった。
「釣りはね、マーケティングとよく似ているんだよ。魚がどこにいるのか、どんなエサに反応するのか、それを考えて動かなきゃ、こんな大物は釣れないんだ」
プロローグ
ここは北海道・森町の山あいにある川。冷たい秋風が木々を揺らし、シラカバやカラマツの黄色く色付いた葉が、周囲の深い緑を映した川面に色を添えていた。川のせせらぎと鳥のさえずりだけが響いている。水面には朝陽がまばゆく煌めいていた。ここには日常の喧騒とは無縁の時間が流れている。
その川のほとりに、一人の若い男が佇んでいた。
彼の名はユウト。キャップの上からアノラックパーカーのフードを被っている。真深く被ったフードの下には、川の流れをじっと見つめる鋭い眼差しがあった。釣り竿を持つ手は大きく、揺るぎない。彼の釣り姿は、どこか風格すら感じさせる落ち着きをまとっていた。揺らめく水面の下で逃げ惑う獲物の姿を見通すかのように、あるいは、目の前の釣り糸の先などとは関係のない、まるで長年待ち続けた答えを手に入れようとしている瞬間のような、そんな眼差しだった。
その少し離れた場所に、もう一人の男が釣り竿を持って立っていた。
名をケンジという。こちらもまだ若い。アウトドアには少し似つかわしくない、色の褪せたデニムパンツに幾何学模様のシャツ。黒のダウンベストを羽織ってはいるが、川風に晒されるその姿はどうも寒そうに映る。身体を揺すり、終始落ち着きがなかった。視線も川面や周囲の木々、果ては空を見上げたりと、なかなかひとつの所に留まらない。ケンジの頭は、水面の下の魚より別のことでいっぱいだった。
彼は数日前、函館のショッピングセンターで家庭用ウォーターサーバーの営業をしていた。
その日、彼は懸命に前を通る買い物客に声を掛けたが、すべての人に断られ、一件も契約を取ることができなかった。そんな日もあると割り切ろうとしても、なかなか気は晴れなかった。断られ続けていくうちに、なんだか自分という人間の存在まで否定されたような気になっていたのだった。
「もう少し頑張れば、誰かが振り向いてくれるはず」
そう自分に言い聞かせながら、内心では、焦りと不安が募るばかりだった。自分がどれだけ頑張っても、届かない思いがあるのかもしれない。高校時代だってそうだった。誰よりも練習したという自負はあるのに、野球部ではスタメンを勝ち取ることができなかった。就職してからもこれという成果は上げられないまま。ケンジは、自分に確固たる自信を持てないでいた。
ため息を吐いて顔を上げた時、上流のほうで釣りをする男が目に入った。ふとした拍子に黒いフードから男の横顔が覗き、ケンジの目はそこに留まった。男の顔に見覚えがあったのだ。
(あれ?あの人は確か……)
数日前、あのショッピングセンターで、自分の営業を笑顔で断った男だった。無表情、またはあからさまに嫌な顔をする客も多い中、男のその笑顔は、あまりに爽やかで邪気がなく、ケンジとしては気分的に癒されもしたのだった。端正な顔立ちで目立っていたというのもあり、よく覚えている。あの彼だ。わずかな期間にこんな辺境の地で会うことなどあるのだろうか。ケンジは胸の奥がざわつくのを感じながらも、その男の釣りの姿に次第に目を奪われていった。
ちょうどその時、ユウトの釣り竿が「グワン」としなった。折れるのではないかというくらいの角度で竿が曲がっている。竿先は水中に引き込まれんばかりだ。30センチほどのアメマスなら、もっと矛先が暴れる。深く、ゆっくりと矛先が沈み込む感じは、かなりの大物という可能性が高い。
釣り竿を握るユウトの腕にも緊張が走った。
「よし」
ユウトは小さく呟いた。そこから始まったのは、まだ見ぬ大物との静かな戦いだった。ケンジは吸い寄せられるように一歩、二歩とユウトに近づいた。竿が水面に深く引かれ、ユウトの全身がそれに応じてしなりながら、竿を反らせる。水面のすぐ下で、黒っぽい影が激しく揺れている。大きな影だ。
バシャン、とそいつは、大きな体躯を川面で翻した。ぎょっとするほど大きい。竿先が慌ただしく、暴れ始めた。右に、左に、動きが激しくなる。
(すごい)
ケンジは心の中でつぶやいた。いや、声に出ていたかもしれない。こんな浅瀬の川にあんなに大きな魚が潜んでいたなど、思ってもみなかった。ケンジは今しがた自分の目前にあった川を初めて目にするもののようにまじまじと見つめたあと、激しく揺れる釣り糸の先の、男の姿を見た。ユウトは、時おり身体をひっぱられながらも、落ち着いていた。腰を落とし、竿の根元を足の付け根で支えている。口の端をやや上げて、彼は笑っていた。獲物との駆け引きを愉しんでいるのだ。30センチのアメマスを釣り上げて喜んでいる自分とは違う。同じ空間にいるはずなのに、ケンジには彼が別世界の人間のように見えた。
その格闘は、20分もの間続いた。
ユウトの顔には汗が浮かび、手元の釣り竿を握る指が白っぽくなっていた。だが、ケンジには彼がまったく焦っていないように見えた。魚は、今わの際と知っての暴れようだ。流れの早い小さな滝つぼに逃げ込もうと、すさまじい抵抗を見せる。水しぶきがケンジのほうにまで飛んできた。あちらも生きるのに必死なのだ。それでも、ユウトは動揺することなく、竿をグッと立て、腰で支えた。
「頑張れ」
思わずケンジの口から声が漏れた。今度ははっきりと出ていたのだろう。ユウトの視線がケンジのほうに向いた。彼の目は緊張に満ちていながらも、楽しげだった。どこにそんな余裕があるのか、と驚くケンジに、ユウトは微笑みかけた。
ケンジの胸の奥がまたざわついた。
まるで、自分が釣り糸の先にいるかのような錯覚さえ覚えた。
(この人は、一体何を考えながら、こんな風に落ち着いていられるんだろう?)
そのとき、ユウトが一気に竿を引き寄せた。
ついに、その大きな魚が水面から飛び出し、引き寄せられるようにユウトの網の中に収まった。釣り糸がパチンと鳴り、戦いが終わったことを告げた。ライン(糸)が切れたのだ。魚は網の中でバチャ、バチャ、と未だ激しく暴れていた。息を弾ませながら、ユウトは魚を見つめた。ブラウントラウトだ。少なく見積もっても、60センチはあるだろう。ケンジは駆け寄って、声を掛けた。
「すごいですね! この川に、こんな大きな魚がいるなんて」
ユウトは、にっこりと微笑み返した。
「ね! やっぱり、いたね」
「やっぱりって、こんな大物がいるって、知ってたんですか?」
「うん。知ってたというか、いるかな、って予想はしてたよ。この川、周辺の川に比べると、アメマスとか、ヤマメが少ないから」
「そういえば、そうかも」
「そうそう。ここより下流で、これよりもっと小さい30センチほどのブラウンを釣ってさ。ひょっとしてって思ったんだよ」
ユウトは、手際よく魚のこめかみあたりに刃を突き刺して、魚を〆た。尾をのけぞらせて痙攣したブラウントラウトは、それきり動かない。あんなに暴れていたのに、あっけないものだ。ユウトは川で手を洗いながら、ケンジにブラウントラウトの話を始めた。
ブラウントラウトは、本来、北海道に生息する魚ではなく、外来魚である。北海道では、1980年代に確認されて以来、生息域を広げていた。魚食性が強く、サクラマスの幼魚であるヤマメや、小型の在来種が捕食され、生態系に影響を与えるため「要注意外来生物」に指定されている。ブラウントラウトが大きく成長するのは、その食性にあった。ネズミや蛇も食べるという。ちなみに、同じ外来魚であるニジマスにも魚食性はあるが、主に食べるのは昆虫で、在来種を脅かすほどではないと言われる。
「だからね、ブラウントラウトが生息する川は、在来種である魚は少ないんだよ」
「へえ、知らなかった」
とケンジは、何度も頷いて聞き入っていた。
ユウトは、切れたラインをたぐり寄せ、竿を小さくたたみながら、何かを思い出したようにケンジをまじまじと見た。
「あれ? 君、この前、函館で会ったよね?」
「あ、バレましたか」
ケンジは恥ずかしそうに少し笑って頭を下げた。自分のことなど覚えてはいないだろうと思っていたのだ。
「ウォーターサーバーの販促をしてたんです」
「ああ! そうだった、それだ。あの時は断っちゃってごめんね」
「いえ、そんな。いいんです。結局、あの日声掛けた人、全員に断られましたから」
ケンジは力なく笑った。
「全員に? それは、つらいね」
ユウトは本当に驚いたように言った。その率直な物言いからは、妙な気遣いや中途半端な同情など感じられなかった。そのせいか、言うつもりもなかった弱音というやつが口から出てしまった。
「俺、結構、頑張ってるつもりなんですけど、それがウザいのかな……」
ユウトは少し困ったように眉を下げた。何も言わず釣り道具を片付けている。それもそうだ。いきなり、初対面も同然の男に弱音を吐かれても困るだろう。ケンジは後悔した。
(否定してほしかったのか? 励ましてほしかったのか?)
いや、気にしないでくださいとケンジが言いかけた時、彼はゆっくりと顔を上げ、こちらに視線を向けた。
「なんで、僕がこの魚を釣れたと思う?」
ユウトは穏やかに笑って言った。
「え? えっと、ブラウンがこの川にいるんじゃないかと思ったから?」
「うん。その通り。じゃあ、なんで、この川にいるって予想できたと思う?」
「それは、えっと、他の川に比べて、ヤマメとかアメマスが少ない、から?」
「そうそう。あとは、ブラウンの生態や、在来種を取り巻く環境とか、事前の知識があったからなんだよね。この予想を仮説、と言ってもいいね。でも、この仮説だけでは、釣り上げることはできなかった」
「どういうことですか?」
ケンジは戸惑いながら尋ねた。
ユウトは、微笑みながら、川面のほうを見やった。
「釣りはね、マーケティングとよく似ているんだよ。魚がどこにいるのか、どんなエサに反応するのか、それを考えて動かなきゃ、こんな大物は釣れないんだ」