2日目 朝
起床。
洗顔、掃除、朝食。
午前中の一柱目
昨日、散々、両親を切り刻んだので、いい加減、飽きてきた。
過去のトラウマを、また、再生し始める。
泣き止まないといって、逆上して、大きな声でわめき、手加減してるとはいえ、5歳の男の子をひっぱたく、30代の大の男。
私が成長してから、「しつけ」だったと説明されたが、記憶の中の男は、どう見てもキチガイじみていた。
もちろん、「悲しく」「つらい」のだが、何度も、何度も見てると慣れるし、やはり、飽きてくる。
そして、あまり、何も感じなくなってくる。
「ああ、また、泣かされてる。」
記憶の中の泣いている5歳の自分は、自分なのだが、それを眺めている今の冷静な自分がいる。
両親を切り刻む時の自分は、今の年齢の自分だが、やはりそれを眺めている冷静な自分が、また別にいる。
はて、よく考えると、二人の自分が、心の中にいる…。
セミが鳴いている。
アブも飛んでいる。
アブは鋭角に直線的に飛ぶが、ホバリングして、空中で静止できたりもする。
私に刺さないか、要注意だ。
刺されれば、さすがに、座禅どころの話ではない。
夏の風が、畳越しに吹いてくる。
外は暑いだろうが、寺の本堂はヒンヤリして涼しい。
トラウマの再生や復讐の血の海から、一瞬、気が散った私は、ある事に気づいた。
「結構、心臓って、動いてるんだな…。」
「心臓」は、もちろん、自分の意思でコントロールできない。
「死ぬ」その瞬間迄、勝手に動いてくれる。
左の胸が、大きく波打っている。
聴診器や手をあてれば、鼓動が聞こえたり、動きを感じたりはできる。
ただ、座禅をして、背筋を伸ばし、静かにして脱力していると、心臓が脈打つたびに、左側の上半身が結構、大きく動く。
「こんなに動いていたのか…。」
しばし、トラウマの再生も、血の海も忘れて、自分の心臓の動きに、恍惚とする。
「ドクン、ドクン…。」
体が、鼓動の度に揺れる。
生きている証だ。
座禅後、一緒に座っている方達に聞くと、「良く座れている」との事だった。
一緒に座っている方達は、若い修行僧もいるし、一般の人もいる。
一般の人達は、
うつ病で、薬漬けになり、廃人、一歩手前だった方。
うつ病は、抗うつ剤というのを飲むらしいが、治ったと思って薬を止めた途端、うつ状態から、絶望的になり、衝動的に自殺するらしい。
父親に先立たれて母子家庭に育ち、母親のDVに悩まされてきた方
虐待をして子供を死なせてしまった母親。
毎晩、子供が枕元に立っていたが、座禅をしてから、消えたらしい。
年齢も、事情も、様々だ。
和尚はといえば、我々と同じ様に座禅をしている。
年齢は、もう70過ぎなので、背中も丸まって、まるで、「カエル」のようだ。
顔は寝ているようでもあり、なんとなくだが、仏様の顔のようにも、見える。
怒っているでもなく、笑ってるようでもない。
人ではなく、動物のような、強いて言えば赤ん坊のような不思議な感じで座っていた。
「おまえら、いつになったら、カラスが、カーと鳴くように、お経を読めるようになるんだ!!」
「我とは何か? と聞かれて、答えようとしても、口で必死に木の枝にかぶりついて、ぶらさがってる。答えれば真っ逆さまに落ちるから、答えられない!! 違うか!!」
気がつくと、和尚は警策を持って、若い修行僧に、さっきとは別人のように、烈火の如く「喝」を入れている。
警策は、座禅の時に叩くあの棒だ。
「何年座ったって、悟れりゃしない!!」
「悟れない坊主なんて、何の役にもたちゃしない!!」
いや、わたしゃ、別に、出家するつもりもないし、煩悩まみれでいいので、悟りとかには、全く興味は無くて、単純に、トラウマをなんとかして、仕事を普通にして、穏やかに生きていければ、いいんだが…。
成り行き上、こうなってしまったが、はて?なぜに、ここで座っているのやら…。
そういえば、和尚、心を病んだ多重人格者程、自分を信じないから、短期間で「悟り」に至りやすいとか言ってたな…。
「自分を信じない」って、どうゆうことよ?
とにかく、チンプンカンプンな話ばかりだった。
「まさか、怪しげな新興宗教じゃあるまいし、このまま出家して、坊主になるのか…?」
私は、つるつるになった頭を一瞬想像してみた。
危うし…私…。
(つづく)