血の海、血糊、刀、十文字槍、狂った父親、泣き叫ぶ母親、フリーズした弟、
心臓、手汗、アブ、ネズミ、足の痺れ、ひんやりした本堂の床、
心地よい風、セミの鳴き声、和尚の喝…。
座禅は、暇だ。
とはいえ、心の中では、色々な事を考え、次から次へと、時系列を無視して、「何か」が浮かんでくる。
よく「無心」になるというが、そんな事は、とても無理だ。
もし、自分で「何も思わないし、考えない」と思っても、そうする事ができる人は、この世にいないだろう。
いわゆる高僧・名僧という方達も、実は、そのあたりは、変わらないらしい。
「無心」になれる訳ではなく、
「心に浮かんでくる何かを追わない」
「なんとかしようとしない」
という事らしい。
よくあるビジネス本の、問題解決のうんちくとは、真逆の考え方だ。
夕食後、寝る前に、最後の座禅をする。
夜の本堂は、蝋燭の炎のみだ。
座っている畳は、半眼で見ているせいか、ほぼ真っ暗で、どこが畳なのかも、わからない。
戸は、開け放たれていて、夜風が、時折、吹いてくる。
虫が鳴いている。
トラウマやら、血なまぐさい復讐にさえ、こだわらなければ、良い夜だ。
復讐?復讐とはなんだ?そういえば、まだ、自分は、こうして生きている。
時折、畳の上をネズミが走る。
ふと、視界の端に、なにやら、虹色の何かが、跳ね出した。
「あれは…。」
虹色は、近くに来たり、遠くに来たり、ゆっくり動いている。
大きさは、それ程大きくはない。拳ほどか…。
「綺麗だな…。」
私は、しばし、その虹色を追う事にした。
縁側近くまで離れて行って、ふっと消えたかと思うと、また、眼の前で、ふわっと現れたりする。
「幽霊じゃないな…。人魂か?」
そんなこんなで、結局、座禅が終わる迄、虹は現れては、消え、を繰り返した。
その間、私は、トラウマも、復讐も忘れて、ただ、その「虹」に見入っていた。
座禅が終わった後、一緒に座っていた方に聞くと、
「幻覚だね…。 皆、見る。」
「仏様も悟る前に、大分、幻覚を見て、それが悟りだと勘違いした。
新興宗教では、それを悟りとか言って、入信させる。」
「悟り」には、全く興味は無いが、どうやら、まだまだ、先があるらしい。
夜も更けてきた。
座禅後、和尚とサシで話をする。
トラウマを思い出したり、両親をミンチにしている時、登場している自分とは別に、それを見ているもう1人の自分がいる事を話す。
和尚は、「反省」という言葉もおかしいと応じてきた。
厳密に言えば、自分が1人しかいなければ、「省みる」事は、不可能だと。
「鏡」がなければ、自分の姿形も、見当がつかないのと同じだ。
2人いるから、「省みる」事ができ、客観視できる。
もう1人の自分は、一体誰だ?
自分は、1人の筈だ…。
「トラウマの中で殴られて泣いて、悲しんでいる子供の自分」
「親を八つ裂きにして、血まみれになりながら、喜ぶ自分」
「それを見て、飽きてきたと感じる自分」
「自分が思い込んでいる「我」・「自分」というのは、Virtual…? なんすかね…?」
「そうだな……。Virtualだな…。」
珍しく、禅問答ではなく、普通の答えが返ってきた。
さすがは、70過ぎて(2010年頃)、ネットで悩み相談をやっているだけある。
「Virtual」という言葉にも、楽々とついてくる。
つまり、その「Virtual」な、もう1人の「我」を捨てろ、信じるなという事を、和尚は言いたいらしい。
映画「マトリックス」の主人公ネオが「カプセル」を飲んで、培養液に浸かっているのが真実で、現実だと思っていた事は、「Virtual」「仮想世界」だったが…。
また、「虹」の事を話すと、ずっと黙っていたが、最後に和尚は、
「ま、…見ちゃいないんだが…。」
とだけ言って、話は終わった。
今のところ、出家して坊さんになるつもりもないし、仏教の書物も読んでないので、独断と偏見の解釈になるが、多分、あの「虹」は、私の脳が勝手に作り出した、ホログラムなのだろう…。
虐待で我が子を殺してしまった母親は、夜な夜な枕元に立つ子供が、座禅をすると消えたと言っていた。
トラウマ、罪の意識が作り出す、幻覚なのかもしれない。
そういえば、和尚から、「幽霊」がどうのこうのという宗教的な話は、最後迄、ついぞ聞かなかった…。
(つづく)