『現実はいつも対話から生まれる』ケネス・J・ガーゲン/メアリー・ガーゲン著

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今回はナラティヴセラピーやオープンダイアローグの流れから、社会構成主義の入門書を読んでみました。
前回のブログ↓

・・・ですが、正直難しかったです。ガチガチの専門書です。翻訳書です。
ブログにしようか迷いましたが、一応読んだ痕跡として記録します。
特に心理療法の記述までを抜粋・要約していきます。

第1章 「社会構成」というドラマ

「私たちが世界を創造している」という基本的な考え方
社会構成主義とは、シンプルで直接的な、一つの重要な考えに基づいています。この基本的な考えは、私たちが世界や自分についてずっと教わってきたことすべてをもう一度考え直すことを促します。

もし、木々や建物、人間などは、私たちが「同意」しないかぎり、そこには存在しないとしたら、どうでしょうか?
1歳のジュリエを散歩に連れて行ってみましょう。彼女の視線は、木々や、建物や車の前を通り過ぎていきます。
この違いは私たちの「社会的関係性」に起因しています。

さまざまな視点から認識されるさまざまな「あなた」
生物学者 → 「哺乳類」
美容師 → 「去年のヘアスタイル」
教師 → 「将来有望」
敬虔なクリスチャン → 「罪人」
両親 → 「驚くほどの成功者」
芸術家 → 「素晴らしいモデル」
心理学者 → 「少し神経症患者」

社会構成主義の基礎的な考えはシンプルなようでいて、非常に奥深くもあります。私たちが「現実だ」と思っていることはすべて「社会的に構成されたもの」です。もっとドラマチックに表現するとしたら、そこにいる人たちが、「そうだ」と「合意」して初めて、それは「リアルになる」のです。
重要なポイントは、人が「何が現実化」を定めるとき、常にそれは、ある一つの文化の伝統から話しているのだということです。

もっと広い意味で言えば、お互いにコミュニケーションを取るたびに、私たちは、この生きている世界を構成していると言えるかもしれません。

「言語ゲーム」から「可能性のある世界」へ
私たちは、「言語」に焦点を当てることからスタートしますが、私たちの関心の領域は、「言語」から急速に広がり、あらゆる形の文化を含んでいくことになります。

言語は「写真」ではなく「行動」だ
私たちはずっと、「言語」を「写真」であるかのように扱ってきました。科学者が世界について語る場合、私たちは、彼らの言葉が観察したものを「性格に描写している」ことを期待します。

私たちが使っている言葉は、お互いに関係を「続ける」ために使われています。それらは、世界を映し出した写真ではなく、世界における「具体的な行動」なのです。

その説明が「正確」かどうかは、「共通の伝統」にかかっているのです。

「言語ゲーム」と「私たちの世界」の限界
有名な哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」というメタファーを提唱しました。彼はこれによって、私たちが使っている言葉が、いかにルール(規則)という制度や慣例にコントロールされているかを示しました。
そして、あなたが、「ある特定の場所」の慣例に参加するとき、あなたの「発言の自由」は、根本的に制限されるのです。あなたが生物学者なら、内科医、銀行家、聖職者とはかなり違う「言語ゲーム」にどっぷり浸かっているわけです。
ただし、私たちはここで、言語のルールだけを取り扱っているわけではありません。通常、言葉は、私たちの活動の中や、私たちの振る舞い方、装い仕方、あるいは、私たちの持ち物やそれを使って何をするか、といったことの中にも組み込まれています。
言い換えると、私たちが使っている言葉は、なすべき行動を私たちに伝えているということなのです。もし、私たちが、普通に「椅子」と言えば、あなたはその椅子に座ってもかまわないと思うでしょうが、もし、「貴重なアンティーク」と言えば、おそらくあなたはそこには座らないでしょう。ということは、構成主義者にとっては、ここで「二重の聞き取り(ダブル・リスニング)」を促されていることになります。すなわち「中身(コンテンツ)」と「結果」の2つです。
ヴィトゲンシュタインによる定義では、私たちの「言語ゲーム」は、「生活形式」と彼が呼ぶ、より大きな行動パターンの中に組み込まれています。
「言葉」は、これらの異なる「生活形式」を一つに束ねる助けとなっていると同時に、「生活形式」が「言葉」に意味を持たせているのです。また、それと同時に、これらの「生活形式」が私たちの世界に「限界」をつくってもいます。

「良きもの」としての「現実(リアル)」
私たちはみな、「事実」と「価値観」との違いを知っています。
「事実」とは、「確かなもの」で、客観的であり、願望や政治、宗教といったバイアスがかかっていないエビデンス(証拠)に基づいた記述です。
一方、「価値観」とは、「脆弱なもの」で、主観的であり、確固たる基礎もなく、単純であり、個人的に心を注いでいるものを表しているに過ぎないと考えられています。
社会構成主義は、この長い間に培われた「事実」と「価値観」の区別に挑戦します。

それぞれの伝統に、それぞれの価値観があります。ということは、あらゆる事実の描写には、良くも悪くも、何らかの価値観に基づいた伝統が保持されているのです。この意味で、価値観に縛られない描写というものは存在しないのです。

徹底的な多元主義
もし、私たちが「現実だ」とみなしていることが、「コミュニティ(共同社会)における合意」に起因しているとしたら、その事実の主張は、その関係性の中に置かれているはずです。
この意味で、社会構成主義者は、「普遍的な真実」、あるいは「唯一無二の真実」、あるいは時に「超越的な真実」と呼ばれるものを受け入れないのです。
社会構成主義は、どの伝統、どの価値観、どの宗教、どの政治的イデオロギー、どの倫理観が、究極的あるいは超越的あるいは超越的に正しいか間違いかを決めるという責務から、私たちを解放します。
構成主義者は、新しい現実や新しい価値観が現れてくるような対話を支持します。

科学か?それとも宗教か?
構成主義的な考え方が、科学を低く評価しているわけでは決してありません。しかし、科学が唯一無二の真実を明らかにするという考え方には挑戦します。
何百年もの間、科学的真実という主張が、宗教やスピリチュアルな伝統の価値を損なわせるために使われてきました。
構成主義はこの確執に新しい視点を提供しています。科学的あるいは宗教的・スピリチュアルな伝統には、それぞれに独自の世界の構成の仕方があるのです。

第2章 「批判」から「再・構成」へ

「脱・構成」とそれを超えて
構成主義の考え方がますます広がるにつれて、私たちの「日常生活」に対する「批判的内省」も同じように増えてきました。
どんな「ものごとの本質」の主張も、それは「見方の一つ」に過ぎないとわかると、それとはまた別の見方もあることに気づくからです。
すると、私たちは、誰の伝統が特に称賛されているのか、あるいは無条件に信じられているのか、そして、誰の意見は黙らせられたのか、抑え込まれたのかに興味を抱くようになります。
そうした批判的な態度は、西洋文化においてますます広がっています。
こうした批判的な試みは民主主義の発展にとって非常に重要です。民主主義の発展に加え、多くの人がそうした批判的活動によって開放感を感じるようになりました。
とはいえ、批判的な傾向は公式な社会にとって絶対必要であっても、同時に危険でもあります。
ここで、新しい言説の形が総攻撃的な批判という伝統に取って代わる必要があるのです。どうしたら、相手を悪者扱いすることなく、批判的に考えることができるでしょうか?

「個人」から「関係」へ
私たちの社会は、それぞれが意識的な意思決定力を持つ別々の個人で構成されています。
たからこそ私たちは、民主主義を支持し、西洋文化の特徴を「個人主義」としてるのです。
しかし、構成主義にとっては「意識的な意思決定者としての個人」という事実は、それほど明らかではありません。むしろ私たちは、これを世界を構成する方法の一つに過ぎないと捉えています。
個人主義が間違っているというわけではありませんが、私たちはこれまでの枠を超えて、その良い点と悪い点を問うことができます。
個人主義の世界では、「関係」は二の次です。なぜなら、「関係」は、「人為的な策略」として扱われ、場合によっては、時間(手間)のかかる、自己充足できないときのみ必要なものだからです。
まさにここで構成主義の考えが生きてきます。構成主義の視点では、「個人」ではなく、「関係」が社会の基盤を構成します。

「調和した行動」としての意味
伝統的に、「意味」は個人の頭の中に存在するものとして語られています。私たちは、言葉は心の中の働きが外に表出したものと考えています。
しかし、それは個人主義的なバイアスに加えて、人間の理解に解決不可能な問題も生み出しています。もし、意味が他人の頭の中にあり、そしてそこで何が起こっているかを知る唯一の手掛かりが言葉による表現だとすると、他者を理解することは不可能ということになります。
こうして私たちは、学者たちが「解釈学的循環(hermeneutic circle)」と呼ぶ、それぞれの答えが単に滅の疑問をつくり出すという終わりのない循環へと入り込んでしまうのです。
その循環から脱出する最も有望な方法は、意味がつくり出される「内的世界」を放棄することです。頭の中にある意味ではなく、「関係」において意味がつくり出される方法に焦点を当ててみるのです。
ではどうすれば、「意味」を「関係的なもの」として理解できるのでしょうか?
 ①個人の発話自体は、何の意味も持たない
 ②意味の可能性は「補足的な行動」を通して実現される
以上の2つの提案を組み合わせると、「意味」は「個人」のどちら側にもなく、彼らの「関係の中」にだけ存在することがわかります。意味が発生するには、「言動」と「補足」が「調和」されなくてはならないのです。
 ③「補足的な行動」それ自体が「補足」を必要とする
 ④伝統は私たちに「意味」の可能性を与えるが、何をすべきかを決めるわけではない

けれども私たちは、過去によって決定されるわけではありません。「行動」と「補足」の「新しい組み合わせ」が常に進行しています。

関係的な「自己」
私たちが内的世界を、「人間であること」の最も中心的な機能であるとするとき、私たちは、区別・孤立・対立の世界を作り出します。
構成主義者にとって、そこから「再・構成」という難問も出てきます。
もし、「再・構成」に成功したら、自分自身のことを孤立しているとか、独立しているとか、根本的にりこしゅぎだとか、競争している他者から危険を感じたりしているなどともはや思わなくなります。私たちは自分のことを「関係から生じた結果」とみなすように、つまり「自己 対 他者」が「他者 を通した 自己」になるでしょう。

「マインド」の関係的な「再・構成」
「関係的な自己」をつくり出すという作業は簡単ではありません。どいうのも、私たちが使うことのできる言葉が「個人主義」という伝統の産物だからです。
個人の「マインド」の状態と中身を「現実にする」用語は何千とあります。一方で、「関係」を表現する言葉は非常に少ないのです。
「個人」の「マインド」という前提から始めずに「関係的な自己」の理解を深めるにはどうしたらいいのでしょうか?
 ①「マインド」の「言説(ディスコース)」は「対話」の中で生まれる
 ②「マインド」の「言説(ディスコース)」は、使うことによって価値を得る
 ③言語は「完全に実行された行動」の構成要素の一つに過ぎない
 ④「パフォーマンス」は、相次いで起こる、「関係」の連続の構成要素である

マインドのパフォーマンスは、ある関係の中においてのみ意味を成します。
一つひとつの行動が、次の行動を誘います。
「関係」の視点に立つと、個人的で私的な「頭の中」の事象だと思っていたこと――思考、感情、計画、欲求など――のすべてを、根本的に「関係」的なものとして「再・構成」することができます。

第3章 社会構成主義と専門行為

社会構成主義と心理療法の変化
社会構成主義的なものの見方をする利点の一つに、「完璧な解決策」を求めるのはおしまいにして、「人の好みはそれぞれ異なる」ことを認められるようになることがあります。
クライエントにとっても、治療者にとっても、セラピーの進め方は個人のスタイルや嗜好、さまざまな伝統や価値に配慮したものであるべきであり、それは実質的には「リアルなこと」と「良いこと」が構成される多様性に配慮するということです。

ナラティブ・セラピー:人生を語り直す
私たちは人生の大半を、自分を主人公に据えた物語になぞらえて理解します。
たとえば、喪失に直面したり、拒絶されたり、人生の方向性を見失ったりするとき、私たちは苦悩を抱えます。しかし、喪失、拒絶、方向性に欠ける人生とは、「もとからそこにある問題」ではありません。それは物語のプロットの内部にのみ存在可能な問題なのです。

ナラティブ・セラピーの治療者はこのような考え方を深く理解しており、人生を「語り直す」ことで「問題」を変化させられると信じています。
多くの人が、問題は「頭の中」にあると思い込み、自分は「機能不全」なのだと感じています。
そのような物語が邪魔をして、自分の問題が社会的・政治的状況に由来するものだと理解できなくなるのです。うつ病など、しばしば個人の機能不全だと説明されるこおとを語り直せば、緊張を強いる経済的・政治的状況にさらされているのだということがはっきりします。
「悪いのは自分ではなく、システムだ」と気づけば、自信喪失の多いが取り除かれ、それまでとは違った行動を取れるようになるのです。

ソリューション・フォーカスト・ブリーフ・セラピー:魔法の言葉
クライエントはたいてい自分の抱える問題について話し合いたいと思いセラピーにやって来ます。構成主義的な見方をすると、問題を真剣に語るとき、その問題がよりリアルに感じられ、ますます重大なものになってしまいます。
構成主義的考えを取り入れている「ソリューション・フォーカスト・ブリーフ・セラピー」の治療者たちは、個人が抱える困難さに焦点を当てる「プロブレム・トーク」に取って代わるものを模索し、そこで代わりになるものとして奨励されるのが、強み、リソース、関係の可能性について話し合うことです。
問題のある過去に原因を探るのではなく、現時点でより適切な関係を築く方法が重視するのです。

ポストモダンセラピーと「知らない」という立ち位置
古くからある心理療法の教育は、治療者が人の問題(もしくは「病気」)の原因と治療法を見抜くようにトレーニングされます。
知っているという姿勢から行われるセラピーではクライエント自身の「知っていること」は認められません。
これに代わる「知らないという姿勢」によると、セラピーの方向性を見つけるカギを握るのは、治療者が家族の話と家族が構成する世界に好奇心を抱くことです。

社会構成主義と組織の有効性
<省略>

社会構成主義と教育現場
<省略>

対立への社会構成主義的な対処
<省略>

第4章 社会構成主義の実践としてのリサーチ

<省略>

第5章 「批判」から「コラボレーション(連携)」へ

<省略>

【感想】

書くことで少しは頭の中が整理されましたが、やはり難解ですね。ただ、これからさらに深めていきたいナラティヴ・セラピーやオープンダイアローグの土台はしっかりしてきたかなと感じております。
省略した部分にある、組織や教育や対立への社会構成主義の立場や考え、構成主義からさらに発展した研究、構成主義への批判などにご興味がありましたら、kindleunlimitedで無料で読めますので、ぜひ読んでみてください。
私も時間を空けてまた読んでみたいと思います。

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心理セラピストtakashi

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