第9回「音屋のkatsu」の音楽あるある〜上京編②〜

記事
コラム
仕事にも慣れ始め、慣れない都会での生活を何とか暮らしていました。

今日は「音楽あるある」と言っている割に、
「全然『あるある』ねぇじゃね〜かよ!」とそろそろ言われそうなので、
この頃の学校での小話を一つ。

学校は渋谷の近くにあり、私の住む「中延」からはちょっと遠かったと
記憶しています。

バスや、電車を駆使すれば何とか行けるんですが私は人混みが大の苦手。
私は大体、販売所の自転車(黒のブリキで出来てる様なチャリ)で、
片道一時間程かけ通学していました。

学校は雑居ビル一棟丸ごとが専門学校で、フロアごとに専攻の科があると
言った感じの作りです。

私が専攻した科は「ドラムス科」。

理由は簡単。今までドラムが一番自分の才能を発揮できた楽器だからです。

当時は空前の第三次バンドブーム。

ジャンル問わずに様々なバンドが群雄割拠している時代でした。

若いなりに、「上手くなれば、何かしらの仕事には喰らいつける。」と
本気で思っていました。

でも、現実は違いました。

それは何も、私が通う学校だけではなく他の専門学校にも共通する話だと
思いますが、一番「プロ」になる為の極意・・・・。

それは・・・・・



「世渡り上手」です。


「はっ?何言ってんの?技量習いに行ってるんだから、上手な奴がどの業界も
採用させるはずじゃん?なんで『世渡り上手』なのよ?」と
聞こえてきそうですが、これが事実です。

全国から、「夢」を叶えるために上京してきた猛者たち。

確かに、みんなそれなりにレベルは高かった。

しかし、私が客観的に見ても言える事はこれにつきます。

何も、「媚び諂う事」が悪いのではありません。

当時、ドラマー界では超有名な講師の方がおられました。

もちろん、テクニック・知識・業界での顔、どれをとってもすごい人。

近づく事は「至難の業」。

まずはその講師に気に入られなけばなりません。

もちろん、与えられた課題をクリアする事は当たり前。

さらに、講師との人間的相性もあります。

当時は「仕事にしたいなら、タダでも下働き。」が当たり前の時代。
業界の人に「顔」を覚えてもらう為です。

周りの人達は、私よりずっと精神年齢が高く、
その事を重々承知していたと思います。

仕事も私の様に「奨学金」でしている人もいました。
ですが、講師からの急な「誘い」や「手伝い」を柔軟にこなせる者と
そうで無い者が次第に現れてきます。

「すみません、仕事が休めれないんです。」と理由をつけると、
だんだんと声が掛からなくなっていく。
そりゃそうですよね。神様からの「恵みの雨」を受け取らないんですもの。

大体の「世渡り上手」ができる人は、元々家が金持ちなので仕事なんか
しなくても親からの仕送りで生活ができる人達。
始めからまでは言いませんが、要は「金」が次の「金」を産むんです。

私は課題もろくにこなせず、授業でのセッションや読譜による演奏も
出来ているのかも怪しいくらいのレベルでした。

日が経つにつれて、苛立ちと焦りが駆け巡ります。
「音楽って、道楽なのか?」
「金がないと、ミュージシャンになれないのか?」

自分の不甲斐なさと境遇への八つ当たりに近い気持ちばかりが出てきました。

初めて自分が誇れるモノを手に入れた気がした。

しかし、上には上がいる。

どんなに努力しても、どんな困難な生活でも諦めない。

いや、諦められない。

でも辛い。

初めて自分が乗り越えなければならない壁の大きさを実感した時期でした。


今となってはどんな結果であっても良かったのだと感じております。
ここから先のお話はまた次回にでも。

ご清聴ありがとうございます。


音屋のkatsu



サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す