☆このブログは、【Zarathustra Art Projects】のHPブログの転載です☆
こんばんは。Philip/K/Komです。
と言っても、読んでる人が夜なのかわからないから、一応こんにちは。
本題に入る前に、この記事のカバー写真をなぜこれ(炎 Heart of flame)にしたかというところから話そうと思う。
結論から言うと、今まで書いてきた絵の中でもとても満足度が高いOutputになったからなんだよね。(別に今まで描いた絵も手を抜いたものは無いよ)
それが、「ここの勢いが良い」とか「このへんの色調バランスが良い」とかいう分解した要素で良いという感覚じゃなくて、観て「あー、けっこう良く描けたなー」って思うんだ。
まだ売れていないから、僕の家のリビングの壁に掛けてるんだけど、目に入ると色んなことを想起するんだよね。
まあこれは親バカかもしれないから、なんとも言えないけど。
でもアートのあるべき姿、つまりアートのイデアがほんの少しだけ垣間見えた気がしたんだ。
例えばさ、何か料理を食べるときに、「これは○○産の食材だから風味が良いのか」とか「わずかにシナモンでアクセント付けている」とか考えないだろ。(「おいしんぼ」は別として)
一口噛んだ時に「旨い!」 この一言で全てだと思う。お客さんにとってはね。
もちろん、作り手側は色んな食材や技法とかこだわりがあるんだろうけど、それをお客さんに必死に伝えようとするのって僕からすると野暮なんだよね。
裏方の良い仕事っていのは、知られないからこそ粋なんだよ。そんなの押し付けられても「情報食ってるわけじゃない!」ってならんかな?
まあ、自分達が作っているモノやサービスがどう良いのか?っていう訴求っていうのはとても大事だとは分かっている。でもそれらは、ハード(手段や材料)を売りにしちゃダメだと思うんだよね。最終的に出来上がった商品が、お客様にどうメリットがあるのか?という命題をいかに分かり易く伝えられるかが肝だと僕は思う。
アートも同じでさ、現代アートと呼ばれるカテゴリーって、けっこう技法が一番に取り上げれることが多いんだよね。例えば髪の毛で書いた絵です。とか
手で書いたり、燃やしたり、塗料を自由に泳がせたりとか、まあ僕が知っているだけでもこれだけあるんだ。
でも結局、それらは技法であって、作品の一部には本当はなり得ないんだと思う。
技法というのは、表現したい何かがあって、初めて何かしらの方法を試すものだと思う。
だから例えば、「筆だとスピード感が出ないなー。もしかしたら髪で書いたらスピード感出るかも!?」みたいな目的が先にあって、そこから生まれる技法は素晴らしいと思う。
でもやっぱり多いのは、髪の毛で書く事が先行して、その技法で何が出来るか?という卵と鶏が逆になっているように僕は感じる。もちろん髪の毛は例えだよ。
だから僕は、技法つまりは技巧にこだわらないことにしている。
普段はナイフかヘラか筆しか使わない。というよりほとんどのアーティストがそうだと思うが、奇抜な技法をしているアーティストは割と目立つから、そう思われている節もあったり。
つまり何が言いたいかっていうと、「直感」こそが全てなんだろうね。
もちろん、18世紀の名だたる名画の歴史をちゃんと勉強してみると、また絵の見方も奥深くなるから良い事だと思う。
でもやっぱり、その絵を観た時「すごい!」とか「うわ気持ち悪い!」とか「ぽかーん」とするような心情的変化が起こる事がそのアーティストの考えや歴史を知りたくなるきっかけになるんじゃないかな。
僕の世代だと「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがテレ東で放映していたんだけど、これこそ僕は直感の作品だと思う。
ひとつひとつについて説明もしないし、観た人の数だけ感想があっていい。旧劇場版が終わったときも何一つ理解出来なかったけど、すごく満足した気がした。なんか壮大なものを観た気がした。これでいいんだと思う。
このアニメは伏線が多いんで、色んなファンが考察したりして、それもひとつのカルチャーにもなった。ありのまま自分の気持ちで観るも良し、考察して府に落とすのも良し。
まあ枕で長くなってしまったので、中途半端だが本題に移ろうと思う。
この記事も長くなるだろうから覚悟して読んでくれるとありがたい。
~AIはアートを駆逐するか?~
シンギュラリティによって、人間が肉体労働する事はなくなるなんて事がよく言われている。
確かに今のAI含めインフラ、ネットワークなどの進歩は驚くほど早い。
たった200年前までは、日本人は電気も無く、エアコンも無く、娯楽も限られていた。
それがどうだろう?今じゃネットがあれば物が届くわ、映画は見られるわ、出来ない事の方が少ないくらいだ。
まあここで議論したいのは、この技術的進歩が良いのか悪いのかというのは置いておいて、AIがこのまま進化していくと、芸術の分野も脅かされるのでは?という懸念だ。
僕の考えでは、半分 Yes 、半分 No だ。
2000年台の初頭の見積もりでは、AIがいくら進化しても、いわゆる人間の創造性に頼る部分は代価が出来ないと考えられてたんだ。
ただここ最近になって、AIも自己で分析して「人間が芸術と定義する物を出力する」事自体は可能になってきている。
ここで大切なのは、「人間が芸術と定義する物」ということころだ。
AIつまりプログラムというのは、人が命令や定義したものしか出力が出来ない。
いわゆる、”AIが自分で考えているように見える”けど本当は入力に対して、決めらたプロセスに従って動いているだけなんだ。
だとすると、最初の命題に対する答えは「Yes」じゃないの?となりそうだがちょっと待ってくれ。
さっき書いたように、「人間が芸術と定義する物を出力する」となると、AIが作って出てきたものを人間が観た時どう思う?
当然、芸術のなんたるかを最初に定義付けているだから、出てくるものも芸術なんでは?ということになる。じゃあここで言う芸術家は誰になる?プログラマーか?AIか?
実は、このAIの作る芸術に”芸術の本質の所在”は大事ではない。
なぜかというと、人間が芸術だと感じるものにはある程度黄金則がある。
構図や色の使い方、質感、流れなど、歴史を振り返って、レンブラントやミレー、ピカソ、ルソー、ゴーギャン、ゴッホなどその特徴を数式化して定義にすれば再現は出来てしまう。
ある程度のコーチングは必要だろうが、
例えば「ひまわり」+「油絵」+「ゴッホ風」という定義と要素を組み合わせれば、AIがゴッホのひまわりの新作を現代にお披露目する事が可能になる。
これは別に絵画だけの話ではない。音楽だって、大衆が聴きやすいメロディーと愛だの恋だのメッセージ性、サビの盛り上がり感を定義付ければAIが作曲出来てしまう。
というより、人間のランダム性が無い分、AIが作った作品の方がドストレートに素晴らしい作品だと感じるかもしれない。
ここまで行くと、いわゆる「精製塩」みたいなもんだ。
塩の旨さというのは、ほんの少しの雑味や、塩気以外にも複雑な風味のバランスを取っている。でも塩気が欲しい人には、純粋にしょっぱいアイテムとして精製塩はうってつけなんだ。
しかもAIは定義された事以外は出来ない分、逆に定義さえ出来れば、過去に評価された芸術家の絵の「質感」や「色合い」や「構図」など様々な要素を抽出して最強のキメラアートを作る日も来るかもしれない。
それでは、なぜ半分が「No」なのか?
それは、AIには新しく定義を生み出す事が今現在は出来ないと言われているからだ。
難しく書いたが、今現在存在している魅力的な表現方法は、ほぼ全てAIで再現出来ると思う。しかし、今までの表現方法は出来ても、新しい表現方法を生み出す事は出来ないと思う。そこはやはり人間が良いと思う表現方法を定義化して、AIをアップロードしていく必要がある。
つまり、こういった今ままでの作風や技法とは違って、全く新しい作風のアーティストはAIにパクられにくい(いつかは解析されて表現可能になるのだろうが)
そして芸術も含めなんでもそうだが、人間が言う「良い」「悪い」も時代性があり、その時はとても持て囃されたけど、今は別に大したことないと言われる事も多々ある。
そこでも、やはり人間がAIに軌道修正し、「良い」の定義をアップデートする必要がある。
つまり、段階的に人間の芸術性は実際に絵を描いたり、詩を作ったりする事ではなくなり始めると思うんだ。
①現在:AIが描いた絵はなんか気持ち悪い。やっぱり人間が直接作った方が良い
②10年後くらい:AIが描いた絵がアーティストが描いたものと遜色が無くなる
③12,3後くらい:アーティストが描いたものは高いので、ほぼほぼ似たようなAIの絵を買う
④20年後くらい:AIの中でも芸術特化型が表れ、人間の創った作品よりも良いものを作れるようになる
⑤その後:雑味のある人間が描いた絵なんかより、分かり易いAIの絵の方が重宝される
みたいな流れをいくんじゃないかと僕は思っている。
だから我々人間は、AIでは出来ないような、常に新しい価値、表現、考えなど創っていかないと生きる術がなくなってしまう。
それが出来なくなってくるアーティストが増えてきて、徐々にAIアートが台頭し、芸術とは人間が創るものでなくなっていく。
このように、完全にAIが芸術を支配するにはまだまだ時間がかかるとは思う。
(AIが創るというより、プログラマーが定義を作る段取りが時間がかかる)
いまだに多くの人が「ハンドメイド」「職人による丁寧な手作り」というキャッチコピーに対してポジティブなイメージがあるのは、今はまだ機械化=大量生産にたいしてネガティブなイメージが着いているからだ。
長くなったが、まとめると
<結論>AIはアートを駆逐するか?
◇半分 Yes:近い将来AIが創ったアートが人間が直接創るアートを超える時が来るから。そしてAIアートを有り難がる人が増えていくから。
◇半分 No:新しい作風や創作には、新しく定義を着くる人間が必要。その時代では、そういった「Definer(定義者)」が芸術家なのかもしれない。
まあ一定数はアンチAIアートの人達がいて、上手く出来過ぎているAIアートよりも人間が描いた”味”を好んで、人間が創ったアートを好む人もいるのはいると思う。
結局言うと、AIが悪者なんじゃないんだよ。
多くの大衆は、それっぽくて、アーティスティクスな商品が欲しいと思った時、AI作だろうが、別に構わないという人達が無秩序な効率化を加速させていくんだ。
本物のロレックスなんて高くて買えないけど、機能は全く同じの中国製の偽物で良いっていう人もたくさんいると思う。
でもなんというか、そういう本質を見極める力が無くなって、受け身の生き方で、それっぽい何かで周りを囲んでいくのって僕はすごく虚しい生き方だと思う。
でも今の資本主義社会では、何をするのも天秤の片側は必ずお金なんだよね。
まあこの話はややこしくなるから、またの機会にしよう。
そんなわけで、AIがアートを駆逐はしない。AIアートというカテゴリーが生まれ、それを作ってメンテナンスする人が出てくるだろうという未来のお話しでした。
だって、アートという一大産業を無に返そうと思う人はいないと思うしね。
そして大切なのは、僕たち製作者もそうだし、鑑賞者がちゃんとアートに対して真摯に付き合っていけるか?興味を持ち続ける事が出来るだろうか?という事だろう。
そうでなければ、アートや芸術なんて聞こえはよくても、いわゆる「インテリア雑貨」に落ちぶれるのが良い所だろう(別にインテリア雑貨自体を非難はしていないよ。アートは本質的にはインテリア雑貨ではないということ)
そんなこんなで、長くなったが今回はこの辺にしようと思う。
わざわざ読んでくれてありがとう。
次回は「芸術はどうあるべきか?」というテーマで書けたらと思う。
それでは、また次回!
Philip/K/Kom