☆このブログは、【Zarathustra Art Projects】のHPブログの転載です☆
こんにちは、Philip/K/Komです。
私のホームページに掲載しているブログをこちらでも掲載を始めようと思います。
独断・偏見まみれですが、ご興味のある方は是非ご覧ください。
ちなみに、何回かやろうと思っているこのブログの「芸術論談義」だけど、あくまで僕個人の考えであって、正しいとか間違っているとかそういうのはナンセンスなので、読みたい人だけ読んでみてくれればいいです。だからそういう意味で閲覧注意にしてます。
今芸術活動していて、自分流の考え方がある人やこだわりのある人はムカつくかもしれないので、読まない方が良いと思います。
一応注意はしたので、では始めますか。
まあ、第一回なので「そもそも論」から始めようと思う。
そもそも「芸術」というのは何の事だろう?
芸術(げいじゅつ、希: (η) τέχνη、 téchni、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。 文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などを指す。
上記は、Webilio辞書を引用。
大事な事なポイントは、
表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合う
つまり、作っている人または、見ている人と2方向の視線があって初めて芸術なり得るということなんだよね。
だから、いくら自分で芸術家気取りでなんだかんだガラクタを作ったところで、世の中に晒さないと芸術とは言えないんだ。
そして、芸術の目的というのが、
精神的・感覚的な変動を得ようとする活動
この辞書の文章センスは本当に修逸だと思う。
まさにこの、芸術活動において、最終的に観ている人(作った本人含め)、何か情緒的な変化や感化の作用があって初めて「芸術」という活動が成立したと言えるんだ。
だからいくら、自分で素晴らしいと思った作品を作ったところで、自己満で誰にも見せなかったりするのもダメだし、観た人が何の感情も湧かないのもダメなんだ。
だけど、これはあくまで論理の話だ。
芸術の難しいのは、ここからだ。
芸術というのは、観る人によってどう感じるか十人十色なんだよね。
それが醍醐味といえばそうだが難しいとも言える。
例えばパブロ・ピカソの絵を観た時に、「なんだこれ?」と思う人や「とても感慨深い」と思う人もいる。そしてそのレベルも千差万別だ。
そんな時、ある人はこんなことを言ったりする。
「芸術というのは、観る人にも見識や勉強が必要」
まあ、半分合っている様な気もするが、僕の考える芸術とは違うな。
真の芸術っていうのは勉強や理屈などの前置き無しで、フィーリングが発生するものなんだと思う。
観た瞬間ぞわっとするというか、あーいいなぁって思うかは人それぞれだけど、何かしらの情緒の変化が起きるんだと思う。
そりゃ、勉強熱心でその絵の作者の背景や芸術を学問として勉強する事はとても意義深いと思うよ。だけど世の中のオーディエンス全てがそんなに芸術に関して熱心じゃない。
でも、”分かる人だけ分かれば良い”っていう態度では、芸術に進歩は無いと思うんだ。
どんなに愚鈍な人間にでも何か感じさせればそりゃすごい芸術だ。
まあ言うのは簡単だが、それが達成出来たのは歴史上でもほんのわずかな人物だけだ。
別にそこを目指すかどうかは、そのアーティストそれぞれの考え方があると思うから自分の信念で活動すればいいと思うけどね。
この芸術活動っていうのは、本当に幅が広いし奥が深い。
人間ってのは偶然にも五感というのがある(六感がある人もいるが)
たぶん、この次元の地球人は5つの要素しか感じられないけど、他の星の人達はもっとあったりするんだろう。
まあそれはいいとして、その5つの要素すべてが芸術として訴求出来る。
聴覚:音楽など
視覚:絵画や映画
嗅覚:香水など
味覚:料理
触覚:車のステアリング、スマホなど
学術的には、人間の判断材料の6割くらいは視覚情報らしい。
上に書いた5つの要素で音楽や絵画は芸術と直ぐにイメージできると思うけど、最後に書いた触覚がスマホとどう芸術に関係するか?
正直、スマホというのは芸術活動の塊みたいなものだと思っている。
特にiphoneの造形や操作性は、人間の心理を先読みしてあらゆるニーズにシームレスに応えてくれるデバイスだと思う。
こういった、身近な工業製品の大切なポイントは「違和感が無い」というところなんだよね。わかりやすい芸術性というのは表面にはないんだけど、あれを最初設計した人は芸術家だと思う。
音楽なんて芸術活動の最たるものだと思う。
世界中に星の数ほど曲やアーティストがいて日々新しい音楽を発表している。
僕が特に好きなのは、「Pink Floyd」なんだ。今の人達はあまり知らないと思うが。
何が素晴らしいかというと、誰もやらなかったような楽曲を70年台初頭にやってしまったところにあると思う。このアーティストはプログレッシブなんて呼ばれるカテゴリーで意味としては”前衛的”みたいな感じだ。誰にも似ていない唯一無二の曲を作っているところに価値があるんだよね。
絵描きも同じで、自分なりのアイデンティティが無いと世間には認めてもらえない。
それがまあ良い絵かどうかは置いておいて。草間さんとか岡本太郎先生も日本を代表するアーティストだろう。
誰が観ても、あれはだれだれの絵だって分かる作風というのが大事なんだと思う。今の自分にそれが無いのも重々承知だ。だからこそ描くことをやめずに、描いて描いてどんどん描かないとダメなんだ。
究極アーティストのアイデンティティというのは、考えて出てくるものじゃないと思う。
数学みたいに、数式の先に答えがあるものじゃなく、不確定な変数だらけで、それをいじくり回して、ひょうな事から突然アイディアが出て来たるするんじゃないかな。
まあ難しいのは、そのアイデンティティに固執しすぎてもおかしくなってしまうところだろう。2つパターンがあって、自分ではすごい良いと思う作風だけど世間に受け入れられない。もう一つは逆に自分はあまり気に食わないが、世間が求めている作風だ。
1つ目は、たぶんたくさんのアーティストが毎日頭を悩ませている事だろう。でも真にその作風が自分なりのメッセージ性があって自分が楽しいのなら、そのまま続けていく方が良いかもしれない。
大変なのは2つ目だ。一般的に上手くいってそうだけど、自分はもうそのイメージを払拭して新しい事をやってみたい。だけどそれを世の中は許さない風潮という感じだよね。よく映画監督や漫画家が新しい作品を作ったときによく起こる現象ともいえる。
結局、芸術活動というのは、作る人と観る人の相互関係なんだけど、どちらか一方に大きく傾いてはいけないということなんだろう。作る人がそれで良ければ単にエゴになるし、観る人に迎合しすぎたら単に商業主義になってしまう。
この2つのバランスをよく考えながら活動していかないと作り手は参ってしまう。
ロシアの画家の「ド・スタール」という人は、売れるまでに相当時間がかかったんだけど、売れてからは、絵が飛ぶように売れるからプロデューサーからもっと作れ!早く描けとせっつかれる晩年だった。そりゃ、お金は儲かっただろうけど、アーティストとしてはとても辛い時期だったと思う。要は自分の描きたいものじゃなくて、売れるから描けと命令されていては、それはもう芸術活動というより生産工場に近い。
多くの著名な芸術家や小説家の先生は、晩年はご苦労なさったようだ。
僕がとても尊敬している「ズジスワフ・ベクシンスキー」先生も、お金を普請しにきた親戚に殺されてしまうという最期だった。
なんというか、真の芸術家というのはただ静かに絵を描いて暮らすというのがあるべき姿であって実現は難しようだ。
まあ第一回なので、こんなところで終わろうと思う。
第二回目は、「芸術はAIにとって代わられるのだろうか?」というテーマで書こうと思う。
もしよければ読んでもらえれば幸いだ。
それでは、ここまで読んでくれて本当にありがとう。
また次回
Philip/K/Kom